ここ最近仲良くなった女性を初めて家に上げたら、「なんで本棚置かないの?」という、一人暮らしを始めて以来、鼓膜が馴化するほど幾度となく言われてきた言葉をまた聞かされる羽目になった。確かに机の上や窓台やカメラのドライボックスの上や押入れの中みたいなありとあらゆる場所にありとあらゆる本が散らばっているわけだけど、全く広いわけじゃないワンルームのスペースが大きな木材の塊で占有されてしまうのが嫌な気がして、さっきの会話の最後に「これからも置くつもりはないよ」と付け加えておいた。その言葉に納得したかしていないか判別のつかぬ表情を横目に俺は、やっぱりあるに越したことはないかな、なんて考え始めた自分の存在に気がついて、その地に足つかない気の移ろいやすさに苦笑いした。

押入れの中で高く積み上げられた本の最下層にある人体解剖図が急に必要になるといったことが昨日実際に起こったわけだけど、こんな時こそ本棚という革命の風を自ら部屋に迎え入れる時である。いっそのこと、押入れを改造して本棚にしてしまうか?? そうすれば、今まで思い悩んでいた部屋のスペースのことを一切置き去りにして考えることができる。そうすれば、昨日みたいにわざわざ積読を掘り起こさずとも一瞬にして目的の本にたどり着くことができる。そうすれば..........。枚挙に遑がない。

しかしこうして本や写真集やらが膨大に増えていくことで、恐らく定住するようなタチではない俺が、次第に身動きが取りづらい状態へと近づいていっているようで、なんだか喉に魚の骨が引っかかったような気分になることが度々ある。常に身軽になりたいと思っているけれど、俺が好き好んで集めているものたちは裁断してPDFで読むようなものでもない。KINDLEなんぞ洗脳された奴らが手を出すものだ。身軽になりたいという思いと、愛してやまない沢山のものたち囲まれていたいという思いは、相殺し合う運命なんだろうか。そして、最近友達から fender mexico squier series の年季が入ってかっこいい黒のテレキャスを貰ってしまった。また一歩、定住生活に近づいた。これじゃあまるで養鶏場のブロイラーじゃないか。重い体では、遠くへ行けない。

夜明け

疾風を背に受けてぐんぐんと加速していくクルーズ船のデッキの頂上で、中学の友達と一緒になってワイワイガヤガヤとお喋りをしていた。デッキの頂上にいたはずなのに、見えていた景色はマストトップから辺りを見下ろしているかのようで、そのせいか向かってくる突風はより一層強烈に感じられた。そんなちっぽけな人間のことは意にも介せず、クルーズ船は手加減無しに加速していき、そのスピードが最高潮に到達したかと思われたその瞬間、目下の景色が窺えないほど高くて長い橋に差し掛かった。過剰に振り切ったスピードのせいか、橋の半ば程に差し掛かった瞬間、クルーズ船は欄干を突き抜けて橋の外へ飛び出してしまい、そのまま急降下を始めた。周りにいる皆が、間違いなく死に向かっている事実を察知して悲鳴をあげる中、俺はただただ奇声を発しながら、今度は下から突き上げてくる突風を体全体で受け止め、ジェットコースターに乗っているかのような気分でいた。ものすごい勢いで重力に引っ張られながら急降下を続けたクルーズ船は、船底から硬い地面に叩きつけられてバウンドし、次の瞬間空中で横転した。誰かが発した、最期に振り絞るような叫声が微かに耳を掠めていった。

洗濯物を干しにベランダへ出ると久しぶりの突き抜けるような快晴で、カレーを食べに行きたくなった。いつからか、カレーと快晴は切っても切れぬ関係になっている。昼頃になってやっとベッドから抜け出して、道中で水を買って、真正面から突き刺さる太陽光と目眩のしそうな熱気に揉みくちゃにされながらカレーを食べる。そのあとバングラッシーをキメて24時間の眠りにつく。最も無意味で最も有意義な時間の使い方。

 

 

昨日新しく知ったはずのことが、一夜明けてみるとずっとずっと前から知っていたことのように感じられることが頻繁に起こる。感情なんかも一緒で、つい何時間か前まで新しく生じた感情に感動していたのに、眠りから覚めたらその新しい感情はかなり前にどこかで経験したもののように感じられる。夢も、ストーリーが終わって目が覚めた瞬間は新鮮さに満ち満ちているが、数時間後にふと夢を見たことを思い出すと、そのストーリーは遠い記憶であるかのように感じることがよくある。自分にとって新しい何かを経験した時に感じる新鮮味は幻なんだろうか。確かに新鮮味を保ったまま、初めて衝突した時の閃光を煌めかせたまま、存在し続けているものもある。ただ、確実に新鮮味を持っていたはずのものが、いっとき経つと遠い記憶のように変化してしまうこの現象は何なんだろう。前世の記憶がDNAにこびり付くように組み込まれているみたいだ。

 

 

明日ノベンバのDVDが届く、予定。吉田棒一の本も注文した。何週間後かに届く、予定。最近心の奥底にまで振動が浸透してくるような作品に出会えていない中、このふたつにはめちゃくちゃ期待している。

最近良い作品に出会えていないみたいな書き方をしてしまったけどこれはそんな一面的な意味ではなくて、なんというか、これは意味わかんねえとか面白くねえとか思っても、自分がその面白さに気づけていなかったり、面白さを逃したりしているだけだと思うんだよな。気づけていないなんてよくあることで、少し大人になってから再び作品に触れるとすごい衝撃が返ってきたり、すこし遠回りをしてから再度触れてみるとその価値が輝きだすことがあるってのが、その最たる例だ。また、俺は”ノーベル賞を欲しいと口に出している”という理由ひとつで村上春樹を軽蔑していて作品などひとつも読んだことがないわけだけど、これはまさに面白さを逃していることになる。ついでに『ティファニーで朝食を』も、彼が翻訳しているからなんとなく手に取らないでいるけど、これも同じようなことだ。けどやっぱり分かんないもんは分かんないし、それも運命ということで楽天的に受け流す。お気に入りのもので生活を埋め尽くしたい。新しいDVDと本が楽しみで楽しみで心が弾んでいる。早く明日へ!!

 

 

親戚のおばちゃんが亡くなってしまってから丁度一年が過ぎた。酔っ払った頭で、そのおばちゃんのことを想った。酔った頭の方が、より一層本心を伝えることができると思った。この疫病のせいでせっかくの一周忌のお祈りが延期になったらしい。俺もゴールデンウィークに合わせて帰省して一周忌に参加する積りだったのに、飛行機に乗ることさえもはばかられるこの状況、、、止む無く払い戻しの手続きを行った。親戚のおばちゃんは、自分で選択したのか、それとも梵みたいな何か崇高な威力に引っ張られたのか分からないけれど、ゴールデンウィークの真っ只中に突如息を引きとってしまって、皆大慌てだった。俺なんか、母親に飛行機の値段は気にしなくていいから帰れたら帰ってきなさいと言われたものの、そもそもゴールデンウィークに直行便のの残席が存在するわけもなく、しょうがなしに台湾を経由して故郷に帰った。台湾に寄って帰ってきたよ、と母親に告げると驚嘆と感心がごちゃまぜになったような表情が返ってきたけど、旅慣れた俺にとってはそのくらいのことは何でもないことだった。台湾なんてただの隣県だ。まあ、面倒臭いといえば面倒臭かったんだけど。けどこの面倒臭さの先には満開の菊が咲き誇るような光景が確かに存在していて、それは棺桶を覗き込んだ時に強く強く感じられた。すごく親切にしてもらった人が亡くなってしまうのはとても悲しいことだけど、人が後世に向かって静かにバトンを渡す瞬間はとても尊いものだと、このくらいの歳になって初めて本質的に気がつく。無言で、全てを理解してくれているような人だった。やっぱりね、人の魂というものはそう簡単に消滅してしまうものではない気がする。

 

 

野菜や鶏肉や魚が沢山詰まった重い買い物袋を提げながらアパートの階段を登っていると、途中のフロアで、ある部屋のドアが空いていて、そこの住人と恐らくそこを訪ねてきたであろう友人が立ち話をしていて、目が合うのも気まずいから下を向いてそそくさとはやくそこを通り過ぎようとするとそのどちらかが、「いやあやっとラブライブを観終わったんですよね〜〜〜」と言った声が耳に入ってきて、密かに声を殺して爆笑していた。おふざけ以外では友人対して敬語でなど話したことがなく、更には仲良くなった年上の人に対しても敬語を吹っ飛ばしてしまうことがあってなぜだかそれをすんなりと受け入れられてしまうことがほとんどの俺は、きっとこの先いくら人格が変わってしまうほどの体験を経たとしても、如何なる職業で飯を食っているとしても、友人に対して敬語で話す感覚というものは絶対に理解することができないであろう。一瞬だけ異世界に飛んで返ってきたような感覚が面白くて笑っちゃった。せっかく仲良くなった貴重な人間と敬語で話すなんて、互いに理解を深めていって距離をぐっと縮めることを投げ出しているとしかどうしても捉えることができない。これはもう性格だからどうしようもない。けど俺がこう思っていることを彼らが知ると、「いやあ私たちの世界なんてあなた方には到底理解できないでしょうね」なんて言われるんだろうな。彼らは自分らと相反するポイントを能動的に詮索しては周りの人間に"部外者"のラベルを貼り付け、自分らを狭い狭いコミュニティへと更に追い込んでいる気がする。だから魔法使いにまで進化してしまうんだよ、と思う。いや、他人だから別にどうでもいいんだけどね。

深酔

頭から深紅の液体が滴り落ちているような予感がして、額に手の平を当ててみる。けど何も付いていない。それでもまだ何かがポタポタポタポタと.....落ちてくる溢れ出す頭蓋骨のキャパシティを超えて! やばいやばい何かが漏れる。血か?これは? どっかで頭打ったっけ? それとも誰かに撃たれた? また額をさすってみるけどいつもと何も変わりはない。じゃあ額に沿って流れずに直接地面に飛び散っているのか? 果物が破裂した時みたいにさあ! けど地面にじっと目を凝らしても、もうこの人生で何十回何百回と目にしてきた何の変哲も無いリノリウムが横たわっているだけなんだよ。じゃあ今現在俺の脳味噌から流れ落ちているものは何? たまたま隣に居た奴らにそう尋ねてみても、もう頼りになる奴なんてひとりも居ない。客観的な視線なんてこんな場では木っ端微塵に砕け散っている。俺って何でこんなクソみたいな状態になってんの? なんかしたっけ? 3時間前の記憶を検索。皆無。1時間前の記憶。皆無。30分前。皆無。1分前。皆無。あーーー過去の記憶なんてこれっぽっちも残ってないじゃん。感じられるのはたった今この瞬間だけ。時間軸なんてそんな陳腐なもんに惑わされてたまるかよ! "今"っていう概念さえあればそれで事足りるじゃんだって世界中の全人類は"今"にしか存在し得ないから! 過去を遡っても額縁に嵌めて飾っておくような記憶なんて無いに等しいし、未来に目を向けてもどうせ破滅や搾取の道しか見えないんでしょ。やってられるかよこんな世界でさ。だから俺らはこんなむさ苦しい社会不適合者の掃き溜めみたいな狭い空間で最上級の"今"ってものを探求しているのさ。洒落っ気の欠片もない空間で呑気に"今"を持て余しているお偉いさんなんか糞食らえってんだよ。偉くねーよてめーらなんか。貴様らみたいな権力持ってないとガタガタ震えてしまうような奴らに払う対価など皆無だ。こんなこと考えながらカウンターにたどり着くと唯一素面で頼りになるバーテンが一言。お前何回トイレに走ったか知ってるか? だってよ。こんな醜い自分の姿想像できるか? けどこの場で一番悟っていて一番信用できるのはこのバーテンだけだ。彼の言葉を信用するしかない。ということでやっと解決したよ、これほどまでに脳味噌から何かが滴り落ちてきている理由が! もうやばい、普段使っている頭の部分だけでは、今、目の前に確かに存在している世界の全てを受け止めることはできそうにない。脳味噌が真っ赤っかで、びっしょびしょで、絶えず波打っていて、その波は防波堤を遥かに超えて外へと溢れ出す。俺ひとりの力じゃどうしようもない。爆音で流れる音楽に縋り付く。

レジスターに不恰好な半透明の仕切りが設置されたスーパーで買い物をしていた。頑固そうで他人との距離感を未だに掴めていなさそうなお爺さんが何も持たずにレジスターに向かって歩いて行ったかと思うと、一言、「煙草ちょうだい」と。そのままスタスタと帰途を辿っていった。こんな状況下でも、科学になんぞ構っていられるかよ!という態度で死に向かって我が道を貫いていく姿勢に惚れ惚れとしました。エビデンスよりもアティチュードの方に心を奪われてしまうな。理系が何言ってんだろうな。ドミンゴがたいへん美味いから止められない。タイムマシンがあったら昭和に飛んで敷島を嗜んで帰ってくる、というのが夢。

 

 

時間が有り余っているので昨日はずっと弾こうと思っていたtricotの『potage』を朝から練習しまくっていた。繊細な曲。女性の芸術に対するああいったアプローチをとても羨ましく思うことが稀にある。前tabを確認したらcapo3とあって、俺capo持ってねーなーと思ってそのまま放置していたんだけど、ついに買いました、capo。溜まってたサウンドハウスのポイントで。弾いてると指をあっちゃこっちゃ動かさんといけんので脳回路がショートしそうだった。あんなのをライヴで2時間も続けるのはどうかしているな。高校生の頃、G-FREAK FACTORYってバンドを観にQueblickというライヴハウスに通っていたんだけど、その時に対バンで来ていたtricotを一度観たことがある。売れかけ、といった時期だったのかな。イッキュウが可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて可愛くてずっと見惚れていた。スポットライトが当たったイッキュウのあの姿は一生記憶から消去されることなく神格化されていると思う。ギターも、ちゃんと見とくべきだった。。。そんなQueblickだけど、ネットでSave the Livehouseというプロジェクトを見つけたから、微力ながら支援した。あんなにも素晴らしい場が失われては、たまったもんじゃない。

 

 

けっこう前ネットで人と話していると相手が、ごぼうは何にでも合う、みたいな話を持ちかけてきたからそんなわけあるかということで反論しようと思って絶対的にごぼうが合わない料理を考えてみたけど決め手となるような料理名を思いつかずに悔しかった思い出がある。ごぼうが絶対合わない料理って何ですか!!!!!

無用の用

故郷でも疫病が蔓延してしまっていて、通ってた高校のすぐ近くの病院でも院内感染が起こったらしく、見えない敵は見えない角度から脆い人間の身体を蝕もうと企んでいる。ネットをたらたら眺めていると、高校の同級生の父親はこの疫病に葬られてしまったみたいで、なんだか只事じゃないことになっているな。けど引き籠って安牌を切ってばかりいるのは到底耐えられることじゃないから、海風を浴びに行ったりしながら、キノコ雲みたいに空中に漂っている不穏な空気に飲み込まれて黒い雨に打たれるのをどうにか回避している。こんな中、疫病に立ち向かおうとして張り切りすぎたのか、間抜けとしか捉えようのない言動を飛沫とともに撒き散らしている大人がちらほら散見されるが、人間ができることは唯ひとつ、待つことだけだと思う。猛威ってものは、理不尽なタイミングで場を掻き乱し、文明の飽和点を露見させては唐突に立ち去ってゆく。そういうものだ。台風や津波、山火事がそうであるように。ただ猛威が過ぎ去った後、焼け落ちて黒焦げになった燃え殻ばかりで視界を埋めてしまうのか、確実に訪れるはずであった理想とする生活が崩壊したことに腹をたてるのか、それとも惨禍から身を躱した綺麗な華の姿に意識を向けるか、というところで人間の本性が現れるんだろうな。さっさと見えない敵がひらりと姿を消すのを願うばかりだ。海外に行きてえんだ俺は。

海風を浴びに行ったと言ってみたけれどここ最近遠出をしたのはそれくらいで、他の時間は相変わらずギターをジャカジャカしてみたり、本を読んでみたり。久方ぶりに太宰を手にとってみた。『正義と微笑』。ページをゆったりと捲っていると主人公の学生時代の描写に突き当たり、それに影響されて自分が今までに積み上げて来た勉学のことを回想していた。

中学校までの勉強は、なんとなくペンを走らせたら点数取れちゃった、みたいな感じだった。それより崇高でも、卑劣でもなかった。何か特筆して学ぶ意欲があったり興味が沸々と湧いてきたりといった内発的動機に駆り立てられて取り組んでいた訳ではなく、単なる点取りゲーム、といった捉え方をしていたと今になって思う。中学校で良くも悪くも偉そうに教壇に登って教えていた先生には2,3人を除いて全く興味が湧かず、俺はほとんどの先生に対して、ほら点数とってやったぞ、といった感じの態度をとっていた。あまり表には出さず、内心。そんなエゴばっかりの大人に関心がなかった反面、友達とは腹がよじれるぐらい爆笑し合う毎日で、仲がいい班のメンツでは、牛乳にふりかけを混ぜて回し飲みして騒いだり、よくわかんない魚の名前で渾名をつけて呼び合ったりしていた。俺の渾名はネズミゴチ、だった。笑 中学の時には塾にも通っていて、勉学の大部分はそこで身につけていた。塾の先生たちはトークスキルがずば抜けていて、しょうもないことや堅苦しい歴史のことなど、ありとあらゆることを爆笑に変えて話してくれていた。あんなに面白い大人に出会うことはこの先滅多に無いと思われる。こんないい大人のおかげで塾ではずっと一番上のクラスに留まっていて、地域の公立で一番上の高校に進んだ。高校に進んだ途端、数ヶ月前まで天まで届かんとするぐらいの勢力だった勉学に対する意欲が急激に失われていった。きっかけはよく覚えていないけれど、学校でやらされているような勉強は意味があるのかとか、もっと内なる興味関心に則して勉強をしたいとか、そういうことを思うようになっていった。点取りゲームは終わってしまった。一応最低限、赤点をとるかとらないか程度の勉強はしてみるものの矢張りそこまで興味を持てず、しかし何かを学ぶ意欲はずっと離さないでいたので、この時から興味を感じた全ての本を浴びるように読み始めた。親戚の家から持ち帰ってきたカビ臭い全集で近代文学に傾倒したり、生物学の古典的名著を読み漁ったり、精神世界に足をつけてみたり。漢文の文法は大っ嫌いだったけど、『荘子』のストーリーは大好きだった。この中の、”樗木”に関するお話は人生に多大なる影響を与えたといってよい。このように本を読んで未知の世界を自分の中に取り入れる時間と、友達とおしゃべりしている時間だけが価値あるものだった。周りにはいろんな同級生がいて、まあその中のほんの一握りとしか仲良くなってない訳だけど、これは一生関係が続きそうだなと思う人もいれば、この人には俺が生涯かけて努力して勉強しても追いつくことはないんだろうなと思う人もいた。けどこんなに才能をもった、自分より上の上の世界の人間と沢山交わったことで、自分の中に根を張っていた高慢なエゴみたいなものの大部分が悉く抜け落ちたと思う。そんなエゴがこのタイミングで抜け落ちずに、二十歳を超えた今現在の生活にまで持ち込まれていた時のことを想像すると身震いせずにはいられない。大学を受験する直前までは専ら本ばかり読んだり遊びに出かけたりで、学校で学ぶことを半ば放棄していた俺の成績はそれほど時をかけずに底が見えてきて、それど同時に親からの信頼も失われていって、なんだこれまでの信頼はその程度のものだったのか、なんて思っていた。高校の先生に関しては強烈な記憶がひとつあって、始業式だか終業式だか忘れたが何かの集会の時に先生がひとりやふたりステージに登壇してスピーチを行う習慣があったんだけど、その時スピーチをした先生は開口一番、「最近皆課題の提出率がやけに良好だけど、本当にそれでいいのか?」といった旨のことを言い出した。続けて、「課題の提出なんてどうでもよくなるくらいに熱中する何かはないのか?」と。衝撃だった。耳に入ってきたと同時に心に刺さったのが感ぜられ、今でも記憶に残り続けている言葉のひとつとなっている。

こんな長ったらしい記憶を回想するきっかけとなったのは、『正義と微笑』の序盤に出てきた文章で、総括すると「無用の用」を意味するものだった。つまり、日常の役に立ちそうにない勉強が将来の人格を形成していくのだ、と。その文章を読んだ時、高校の頃の勉学に対する態度を少し後悔したけれど、あの頃読書に入り浸っていなければ今在る自分は存在しない訳で、あれはあれで自分がカルチベートされるのに不可欠だったんだろう。何かを逃さないと、何かを得ることはできない。

そして「無用の用」のような古来からの教えが水牛に乗って悠然と存在しているおかげで、余裕を失って有用のものだけをつい優先してしまうような時に、正気に舞い戻るためのきっかけを掴むことができる。”樗木”のような生き方に近づけたら、これ以上の幸せはない。

夜明け

映画のように完成され尽くしたストーリーの夢を見た。記憶はあてにならないから細かいところは忘れたけど。数あるデジャビュの夢のひとつ。回数を経るごとに話の完成度が高まっていく。日頃獲得しているがらくたみたいな経験は、ただのがらくたとして捨てられていくだけではなくて、丁寧にだか雑然にだか知らないが、何ひとつ欠けずに無意識の中に積み上げられていっているんだと思う。そうじゃないと、あんなロマンチックな夢が完成に近づいていく過程なんてものにこうして立ち会っていけている筈はない。泣いていた、夢の中で。完成されたもののみが持つ高貴な美しさに感化され、怖気付いて、泣いていた。こんな経験をするのは初めてだった。ストーリーにピリオドが打たれて目が覚めても、泣いていた。美しい朝だった。

浮遊

意欲の湧いてこない日々が続いている。時計台の鐘が空間を打ち鳴らすような一定のサイクルで欲が出現してきては、一瞬の豊満を得て消えてゆく。その繰り返し。熱を帯びていない、客観的な生活。愚劣なマジョリティの流れに乗るなんてことは決してないが、心情は都会の人混みに押し流されて訳のわからない掃き溜めみたいな場所に向かってしまっているような感覚だ。言葉では上手く表しきれない。

ここに辿り着くまで20分。長い。Sailor Jerry のストレート。ローラーで巻いたドミンゴ

かつて地球に存在していた人や、今も存命している多くの人たちが口にするように、結局、群衆に乗っかってしまうのがもっともラクな生き方だと思う。日本という国においては。「他の人はもう全員海に飛び込みましたよ」と言われればそれに従って飛び込んでしまうような国民だ。こんな奴らと同じ方向を向いて歩いていれば、肩がぶつかり、それが発端となって一生着地点の掴めない対立が生まれることも自ずと減っていくだろう。冷めきったきつい目つきで一瞥されることもあるまい。奴らは、冷めきっているんだ。

こんな冷めきった奴らみたいに、考えることを放棄したくはない、と何度でも思う。くそみたいに遠回りになってもいいや。躁鬱の大波に飲まれてただただ耐えることしかできなくなってもいいや。考えることを放棄してしまうことが、一番恐ろしい。心臓は動いているけど、熱を失ってしまっている状態になることが、一番怖い。そんなもの、人生のカウントのうちには入らない。

こんなことが常日頃から頭の片隅に座り込んでいるのに、意欲の湧かない日々が繰り返される。最近聴いている The Jam はモッズスーツとリッケンバッカーの身なりで殴りかかってきて、Chet Baker は心の内の哀愁を最大振幅まで増幅させ、それを悦へと転換させた。ただ、Sex Pistols を初めて聴いた時の衝動には優に及ばない。最近読んだ、三島由紀夫の『孔雀』や『三熊野詣』は得も言われぬ美しさを秘めていた。ただ、ヘッセの『知と愛』を読み終えた時に湧いてきた、あの沸々とした神気のようなものは感じ得ない。熱気が枯渇してしまっているのだろうか? それとも、ただ単に、本物や新しい感性に出会えていないだけなのだろうか?

空洞のみが頭を支配する。これでは、いくら言葉や写真を取り入れてみたところで受け止めきれているか分かりやしない。まるで、底の見えない真っ暗な洞穴に石を投げ込んで遊んでいるみたいだ。自分という存在の本質や、そもそもこの世の存在の本質が空洞であるとしたら、こんなにまで満ち足りない気持ちに遭遇してしまっているのは何故だろうか? 目の前の真実を限りなく吸収し、自分の心と融合させるために、空洞があるんじゃなかったのか? それなのになぜ、空洞を埋める必要などひとつもないのになぜ、空洞を埋めたいという欲求を満たすことによってしか満足感を得られることができないのだろうか?

 まったく、矛盾している。どうしようもない。ラムを流し込んでやり過ごす。

南からの香り

2020年2月29日現在、コロナと命名されし原核単細胞生物が地球を征服せんとし、アジア圏を中心にその生息域を拡大している。今日のLCCの発展や、明らかにこの星のキャパシティを超越した人口密度が助長し、拡散の速度たるや日本政府の想定より×10程であっただろう。1月にBBCが全世界へ向けて垂れ流した、封鎖されて極限までひとけの押さえ込まれた、殺伐とした武漢の映像を観て、カミュの『ペスト』を想起せずにはいられなかった。こんな中空港へと赴き飛行機に搭乗して各地へ旅行している無防備で楽天的な友達の姿をネットで眺めてみては、半年に一度の、恒例になった逃避の旅を中止せざるを得なかったこの無念を胸中で弄ぶばかりである。日常においてふとした時に嗅覚を刺激してくる、なんとも形容しがたいが、想い焦がれるようなデジャビュを脳内に充満させる薫香や、時たまに体内を激しく駆け巡る緑の香りなどに触れる機会を得ては、行きたい気持ちを無理に押し付けなかったら、とも思うのだが、矢張りただでさえアジア人特有のむさ苦しさで熱りかえった空港へと今わざわざ足を運ぶのには気が引けるし、近い将来に来訪するであろう旅の為に貯蓄を増やしておきたいしで、今回は飛ぶのを止しておいた。そのせいで、読書の量が当たり前のように増加していっている。カミュ漱石、三島、コールドウェル、ジャック・ケルアック...。後悔したのが、ケルアックなんて読んでいるとあの無鉄砲で突発的で、それでいて何かに夢中になるうちに瞬く間に過ぎ去る青年時代のような繊細な儚さが胸まで昇華してきて、結局旅へ出たい気持ちを駆り立ててくる。こんな、どの方角へ投げつけても消化不良になりそうな衝迫を、目前のブッダに打ち明けてみる。彼は何も返答しない、が、無言という重なる苦悶によって得た真言によってこの世の全てを安泰へと導く。

06122019

坂本慎太郎を観た。桜坂セントラル。

楽しみにしていた彼の服装は、ライブ直前に話していたヨレヨレののTシャツじゃなくて、ヨレヨレのジャケットだった。

ライブの中盤頃になって、

「そのジャケットの下に来ている白いシャツは肌着なんじゃないか」

とか

「いやいやジャケットの下に肌着なんか着るかよ」

とか

坂本慎太郎ならそれも有り得るかも」

とか思ってしまった時間が結構あったので、何曲かまともに聴けなかった。ライブ中に何してんだよ、まったく笑。

あとベースの女性がとっても素敵で、3分の1くらいはそっちの方に見とれていた。無口で、多くを語らない大人の音だった。一瞬一瞬の仕草や音に深みがあった。これを機に、OOIOOをダウンロードしてみた。とても理想的な音楽との出会い方をしたと思う。

曲は、いちばん最後にもってきた小舟が良かった。

彼の魂は、人間が今よりももっと悟りを開いている遠い未来に存在していて、そんな遠い遠い上の世界から言葉を紡いで俺たちに真理を気づかせてくれたり、ライブの時間になると妖怪みたいな姿に化けて下まで降りてきてくれたりしているような、そんな想像をしていた。ライブで得た感想を言葉にすることほどかっこ悪いことはないな、と今思う。頭の中のイメージを、言葉を介さずに誰かに伝えることができたらいいのに。

彼らが捌けたあとは、暗闇から落ちてくる大粒の雫にもお構いなしにハイボールをカラカラしたりして、兎に角幸せな日だった。今年のうちでは3本の指に入るほどの幸せな日だったと思う。こんな幸せな日を一生忘れることなんてない。