トリップ

埃で霞んだ窓の外が激しい銀世界であったとしても、悪臭つきまとい汚濁した河川の辺りに突っ立っていたとしても、ごくありふれた無欲なアスファルトの上をトコトコと駅に向かって歩いていたとしても、外界の変化には全くもって無関心な世界が無意識の中に存在しているのを感じることができる。いつかは其処へお邪魔してみたいものだ。だたこちらから足を運びコンコンと扉を叩いてみるとそれはたちまち難攻不落の城壁と化し、そこは不可侵的な領域であることをまざまざと見せつけられる。脳、即ち大脳辺縁系の具現化。俺の脳は堅い。何かの鋳型に流し込まれてキンキンに冷却された金属のように。とはいえ元々からここまで凝り固まっていたわけではないと思う。至極シャイだった幼い俺の教育者たちは、雲は白いこと、道路は黒みがかったグレーであることを脳味噌に叩きつけてきた。更に、両親は己の想像の範囲外にあるものに対して否定的に接し、その否定的思考の先には安定というものがあるということを教えたと思う。もちろんこれが教えられたものの全てではなく、ほんの氷山の一角の話に過ぎない。唯、今並べたエピソードが、赤ん坊の肌のように柔らかかった俺の脳を、真冬に偶発的に触れてしまい、ぞっとするような冷たさを与えるガードレールのような質感に変えてしまった要因の一部であることに変わりはないように思える。今この瞬間ここにある俗世に対しての接し方や捉え方が星の数ほど存在することを見聞、経験して以来、このような何の深みも試行錯誤も洞察もない、盲目の言い伝えに過ぎない教えは偽りであると直感はそう俺に伝えた。しかし人から教えられたことをいいえこれではないと、一度定着した思考を頭蓋骨の外に放り投げたり、伝えられたことを拒否してみたりしてはいるものの、コインや札束の存在を忘れてしまうほどのものに相対したことは恐らく一度もなく、ただただ、尊敬する親戚が空気の霞んだ真昼間、川沿いのテラス席で紅茶をすすってからゆっくりと吐き出した言葉や、甘い香りのする赤茶けたページにヘッセやモームが残した文言の断片のみが募り、それらがぼんやりとした、曲面鏡に映ったように歪んだイメージを作っているのを、ただただ、結露で霞んだ硝子越しに眺めるほかにない状況がここ5年くらい続いている。それらがどれほど大切なもので、ゆっくりと時間をかけて対話すべきものであるかはよくわかっている。言葉の重みやそれらが持つエネルギーがずば抜けている。それに焦って急いで書き留めずとも、それらの言葉は心や無意識に深く返しのついた根を張っているから。では、どういう切り口で接してみたらそれらの全体像を手に取るように鷲掴みし、眺め回すことができようか。俺の脳は堅い。容易には高く掲げたガードは降ろしてくれそうもない。フラッフラにリラックスして無意識に降りて行ってみるか?けど毎回そこは無あるのみだ。