浮雲

せっかくウイスキーの美味い冬が来たっていうのに、何週間も太陽を見ていないせいで心がどんどん金属みたいに重くなっていって、それにつられて体も重くなっていく。このままアスファルトをも突き破る勢いで地面の底に沈んでいって、マグマと一体化するのも悪くないね。なんだか太陽みたいだし。海の下の太陽。上下左右なんて概念がない世界で浮遊するのは気持ちいいんだろうなきっと。体のことばっかり考えているから、重いとか軽いとかそいういうことを感じるんだろうな。そしてそれに囚われすぎて、何か新しいことを貪るために使うはずだったエネルギーは知らぬ間にボトボトと冷えたコンクリの上に垂れ流されてしまっている。怪我をして流血しているのにそれに気づかずに真顔をしているみたいで、滑稽。抵抗しようのない無気力。あえて抵抗しない?? なんだそれ。ヤク中並のエネルギーが欲しい。

 

まだ少し暖かさが残っていた秋のある日、佐々木中という人の存在が視界に飛び込んできた。大学の図書館で検索をかけると確か2冊の本がヒットして、その中から直感だけに従って『切りとれ、あの祈る手を』を読んでみた。衝撃だった。何度でも言える。衝撃だった。それこそ、"貪る"という言葉の存在価値を手に取って確かめるように、だいぶ久しぶりに手元に帰ってきた熱量と抱き合うように、血眼になって言葉を追いかけた。文字や時間が消え去った世界や、何か大事なことまで一瞬にして到達してしまえるような世界への憧れを抱くことが多いけど、この本を読んで、一度眼を通しただけでは手も足も出ないような世界、一生を懸ける勢いで向き合わなければ紐解くことのできない世界もこれまた美しいと再確認した。やっぱり、一度フィルターを通しただけで価値を失ってしまうものは紛い物だっていう直感は間違っていないみたい。ゆっくりいこう。読もう、聴こう、何度でも。そして感動しよう。時には爆笑がやってくるかも。本物と一生を共にしよう。笑えるな。

 

坂本慎太郎の『小舟』のギターソロを練習した。チバユウスケ横山健ベンジーを見てセミアコでロックンロールを弾き倒すことだけがかっこいいと思い込んでいた俺は、数年前に epiphone の CASINO を買って、一生リアだけで弾いてやらぁ! って下手糞なくせに息巻いていたわけだけど、最近はこうして坂本慎太郎を弾いてみたり、The Smiths を弾いてみたり、ネットに Chet Baker の『But Not For Me』の tab が転がっていたから練習してみようと思ったり、だいぶ落ち着いて幅が広がってきたなあと思う。まあ落ち着くことなんてバカらしいからPUNKもバリバリ弾くんだけど。けどPUNKだけバカみたいに弾いてても上手くならないよね、たぶん...。やっとセミアコっぽい使い方をされて愛しの CASINO ちゃんもさぞ喜んでいることでしょう。歳をとって、さらにエロい音とルックスになってほしいと思う。

 

そんな『小舟』には"逃げ遅れたってことか"っていう歌詞があって、最近ずっと曲を聴きながらギターを練習していたせいか、その歌詞について考え続けている。その歌詞が頭の中に居座り続けている。まるでライブで聞いた彼の声が永遠にフィードバックしているみたいに。常に最先端でありたいとか、常に真理に気づいていたいとか、そんな欲求は持ち合わせていないし、もし持っていたところで叶わないのは自明だと思うけど、"逃げ遅れた"という言葉の響きが心に重くのし掛かってきてしまう現実が、ネットを介して知る今の世界と"逃げ遅れた"という言葉が寒気がするほど完璧に重なってしまう現実がやっぱり確かにここにあって、その事実に悲しくなって少し泣きそうになる。こんな何回経験したかも分からない悲しさに嫌気がさして、Sonic Youth を爆音で聴く。少しだけ気が晴れる。布団に入って明日の朝を想像する。また、底まで沈んでしまいそうだ。