03012023

自然選択によって創り出されてきた種の多様性は、陸・海・空といった地球上のありとあらゆる環境を生命の楽園へと変貌させた。しかし、それらの種の適応的な形質はあらゆる種分化を経ることで獲得されたものである。適者を選択し繁栄させるメカニズムは、大絶滅をもたらすメカニズムと同一のものであり、従ってこれらは1枚のコインの裏表のようなものである。

 自然選択によって引き起こされる形質の分化は、構造、行動、生理といった面における多様化をもたらす。あるエリアに生息する生物の数が増加すると、その中で最も多様化した種が生存競争に勝利することになるのは明らかである。生命の基本単位である細胞は、この種の分化を幾度となく経験し、現在の地球上のような種の豊富さを生み出している。しかし同時に、このプロセスの中では環境に対する適応が不完全である中間種が数多く生み出されており、このような種が排除され、滅ぼされているのも事実である。勝者が屹立する影には、必ず敗者が隠れているのである。

 地理学者が化石やその他の絶滅した生物に関する研究を始め、後になって遺伝子解析による分子生物学によって明らかになった事とは、それらは血縁が断ち切られた種の果てしない墓場であるということだ。現在この世界に存在する種は、進化における種分化の過程で、どうにかその時代の環境で生存してきた種なのである。つまり、これらは奇跡的な偶然の産物と捉えられるべきなのだ。

 自然やその環境のメカニズムを通して、現存種もまた淘汰され、取り除かれていく。このような自然のメカニズムの内、環境はある種が存続するか否かを決定づける要因のひとつである。しかし、生物のはたらきにより環境もまた変容する場合があることを忘れてはならない。このことを理解している者は驚くほど少ない。例えば、植物プランクトンが海中に莫大な量の酸素を放出したことにより、地球上の酸素濃度が上昇したことに疑いはないだろう。この酸素濃度の上昇なしには、地球上の生物が現在あるような多様性や種の豊富さを獲得できていなかったであろう。

 生物とその周囲の環境は、アジアで伝えられる”自己と環境の調和”という概念、つまりは互いが互いを支え合う相互依存の関係の中で成り立っている。生命は周囲の環境から多大なる影響を受け、今度は生命が周辺の環境に対して変化を与える。人類がこの宗教的な概念に目醒めたのは3千年以上前であるが、今現在これを心から受け入れている人間はほんのごく少数である。

 このような相互依存の考えと共に生きる人々がごくわずかであるというのは、疑いようもなく良くないことである。特に、2つとない生命の揺籠であり、生命が誕生し洗練されてきた環境である地球に対する今日の人類の傲慢な振舞いときたら。筆舌に尽くし難い悪意である。今更軌道修正することもできないではないか。人類もまた、将来的に淘汰される生命の1種となる可能性があることを理解できるだろうか? 政治経済の論理に基づいた、後先考えない地球環境の破壊は、人類による自殺行為と言えるだろう。空中環境植物学の科学は、この議論を広めるのに効果的となるだろう。

 空中環境の遺伝子解析は、前世紀において既にその技術が確立されている。普通種を観察するのはもちろん、遺伝的な技術を用いることで絶滅危惧種の存在を正確に特定することも可能となり、得られた情報はそれらを保全するために使用される。環境遺伝子技術は、採集を伴わない生物の観察に用いられるため、危険性のある生物や捉えることが難しい生物、絶滅に瀕した生物を、人間が直接的に関わり合うことなく調査することが可能になる。