21092023

PINNACLE VODKAという安いウォッカをショットで掻き込みながら、久しぶりに更新をしている。彼岸の入りの夜空に、ハードコアなパンクが鳴り響いている。

 

9/13の夜に親戚のじいちゃんが逝ってしまって、この間お葬式に参列したところ。

数百年ぶりに見かけた自分の喪服姿を鏡の前に、少し社会性を取り戻した気分になった。

 

そのじいちゃんは、妻の退職金を勝手に突っ込んで真っ赤なスポーツカーを買ってみたり、70代の半ばになってからできた孫にデレデレになってみたり、酔っ払って階段から転げ落ちて骨折してみたり、なんだか道に迷っていた高校時代の俺に近代文学の全集を貸してくれたり、歳を重ねて家事の精度が落ちてきた妻を家から追い出してみたり、退職してから買った広大な畑で作った野菜をたらふく持たせてくれたり、浪人時代に不勉強を心配して手紙を出してくれた2つ違いの姉に絶交を宣言してみたり、言葉数は少なくとも全てを受け入れてくれたり、、、と、良い意味でも悪い意味でも自分の意見を貫き通していて、エピソードに尽きない、はちゃめちゃな人生を送った人だった。

 

とは言っても、ちょいと族柄と年齢が離れているからこんな呑気に描写できるんであって、近くに居たら間違いなく何かしらのトゲトゲした感情を抱いているんだろうと思う人だった。

 

葬儀では、ピンクのシャツと大好きだったGパンに、真っ白な足袋という、へんちくりんな格好で旅立って行ったらしい。最後に棺にお花を供える瞬間には、一緒にピースを入れてあげた。数年前に見かけた時は、クソまずい”わかば”を吸ってたから。んーーー、わかばが好きで吸ってたなら申し訳ないな。けど、ちょっとでも美味い煙草を吸って欲しいという俺からの願い。

煙草は箱から出して棺に入れるという斎場の決まりだったし、美しい花々で彩られた棺の中で煙草の1本1本が浮き出るという構図はあんまりかな、と思って百合や極楽鳥花の奥底にピースを紛らわせたつもりだったけど、遺体が霊柩車にゴトリゴトリと揺られて火葬場に到着してみると、棺の奥底にしまったはずのピースは遺体の口許にピョコッと見参していて、その様子を目の当たりにした俺は、お顔を拝見する最後の瞬間なのにも関わらず、爆笑しそうになるのを必死に堪えた。悲しい顔をして見送るのはつまらないからね、それで本当に良かったと思うよ。

14012023

生活。

ひとり暮らしも6年目になってくるとだいぶリズムというかルーティンというかが凝り固まってくる。それは例えばこんぐらいの時間にこういうのを飲み食いしようとか、こんなタイミングでこういう行動を取ろうとか。特に平日。それらは身体のため。または勝手な慣習によって定められた時間に順応するため。1日の集中力を上げるためという名目のものもある。生きてたら、集中しておきたいことはいっぱいあるし。

でさ、ぶっ殺したくなる瞬間があるんだよな、そんな生活を。

全ての物事に対して「だる、、黙れよ」みたいなスタンスで人生をスーーッと通過したい。てきとーに作ったお団子とか食いながら大雨で表情筋を酷使しない1日とか、文字映像の過剰摂取で目ん玉バキバキの状態でタバコをおかずにタバコを食べる1日とか、そういう生活が続いていく人生も至高なんじゃないかと、そう思うことがある。思うってもんじゃないな、衝動。

自分の世界観を組み上げて、それにちょっかいをかけてくるあらゆる物事を蹴落としながらどこまでも上昇してゆきたい欲求と、ゆらぎに身を任せ、雑音に乗ってヘドバンしていたい欲求とがあって、この2面性とどう付き合ってゆこうかと思案することがある。時々。

03012023

自然選択によって創り出されてきた種の多様性は、陸・海・空といった地球上のありとあらゆる環境を生命の楽園へと変貌させた。しかし、それらの種の適応的な形質はあらゆる種分化を経ることで獲得されたものである。適者を選択し繁栄させるメカニズムは、大絶滅をもたらすメカニズムと同一のものであり、従ってこれらは1枚のコインの裏表のようなものである。

 自然選択によって引き起こされる形質の分化は、構造、行動、生理といった面における多様化をもたらす。あるエリアに生息する生物の数が増加すると、その中で最も多様化した種が生存競争に勝利することになるのは明らかである。生命の基本単位である細胞は、この種の分化を幾度となく経験し、現在の地球上のような種の豊富さを生み出している。しかし同時に、このプロセスの中では環境に対する適応が不完全である中間種が数多く生み出されており、このような種が排除され、滅ぼされているのも事実である。勝者が屹立する影には、必ず敗者が隠れているのである。

 地理学者が化石やその他の絶滅した生物に関する研究を始め、後になって遺伝子解析による分子生物学によって明らかになった事とは、それらは血縁が断ち切られた種の果てしない墓場であるということだ。現在この世界に存在する種は、進化における種分化の過程で、どうにかその時代の環境で生存してきた種なのである。つまり、これらは奇跡的な偶然の産物と捉えられるべきなのだ。

 自然やその環境のメカニズムを通して、現存種もまた淘汰され、取り除かれていく。このような自然のメカニズムの内、環境はある種が存続するか否かを決定づける要因のひとつである。しかし、生物のはたらきにより環境もまた変容する場合があることを忘れてはならない。このことを理解している者は驚くほど少ない。例えば、植物プランクトンが海中に莫大な量の酸素を放出したことにより、地球上の酸素濃度が上昇したことに疑いはないだろう。この酸素濃度の上昇なしには、地球上の生物が現在あるような多様性や種の豊富さを獲得できていなかったであろう。

 生物とその周囲の環境は、アジアで伝えられる”自己と環境の調和”という概念、つまりは互いが互いを支え合う相互依存の関係の中で成り立っている。生命は周囲の環境から多大なる影響を受け、今度は生命が周辺の環境に対して変化を与える。人類がこの宗教的な概念に目醒めたのは3千年以上前であるが、今現在これを心から受け入れている人間はほんのごく少数である。

 このような相互依存の考えと共に生きる人々がごくわずかであるというのは、疑いようもなく良くないことである。特に、2つとない生命の揺籠であり、生命が誕生し洗練されてきた環境である地球に対する今日の人類の傲慢な振舞いときたら。筆舌に尽くし難い悪意である。今更軌道修正することもできないではないか。人類もまた、将来的に淘汰される生命の1種となる可能性があることを理解できるだろうか? 政治経済の論理に基づいた、後先考えない地球環境の破壊は、人類による自殺行為と言えるだろう。空中環境植物学の科学は、この議論を広めるのに効果的となるだろう。

 空中環境の遺伝子解析は、前世紀において既にその技術が確立されている。普通種を観察するのはもちろん、遺伝的な技術を用いることで絶滅危惧種の存在を正確に特定することも可能となり、得られた情報はそれらを保全するために使用される。環境遺伝子技術は、採集を伴わない生物の観察に用いられるため、危険性のある生物や捉えることが難しい生物、絶滅に瀕した生物を、人間が直接的に関わり合うことなく調査することが可能になる。

09122022

幼馴染の友達が結婚式に招待してくれた。人生初の参列がこの式で本当によかったと思った。

冬のチャペルは、外を歩くとキリッと締まった真っ暗で透明な空気の中に視界を埋め尽くすほどの光源が暖を添えていて、そこに言葉は必要なかった。

チャペルの中ではハープの音色が木製の壁や天井に反響していて、寒さなんかが一瞬たりとも肌を掠めることはなかった。

新婦である友達は、入場から退場まで相変わらずずっとケラケラケラケラケラケラケラケラしていた。

変わってないなあ、って思った。

けど、ふたりが祭壇の神父を見つめている自信に満ちた背中を後ろから眺めて、ふたりで未来を見つめていることに感動した。そして憧れの心を抱いてしまったよ。

披露宴では、5人テーブルに中学時代の友達が固められていた。そのうち3人には本当に久しぶりに会えて、俺は自然とずっと笑顔だった。

いつもよく会う仲のいい友達は、前でどんなセレモニーが行われていようとも、誰がスピーチをしていようとも、そんなことにはお構いなしにずーーーーーっと箸とフォークとナイフを動かし、パンにバターを塗り続け、いつものことなんだけど全然噛まずに食いもんを飲み込んでいて、その所業に俺らは爆笑しっぱなし、そいつ以外の4人はアル中一歩手前の喫煙者だから、テーブルには明らかに周りよりハイペースで酒が流れ込み、しょっちゅう皆んなで外にタバコを吸いに出て、いない間に新郎新婦との写真撮影を飛ばされる、みたいなひっちゃかめっちゃかで楽しい時間が一瞬のうちに過ぎ去った。この皆んなと出会えて本当によかったなあ。そして後でちゃんと写真撮れてよかったなあ。

披露宴が終わった後にも、久しぶりに会ったいろんな友達といろんな会話をして、その中には来年からの生活がうんと楽しみになるようなものもあって。

少しずつだけど、俺もようやく未来を見つめられるようになってきたかな。

13112022

ほんの気まぐれで応募した日雇いの労働、それはつまり午前中の人々の監視、を終えて手渡された6,500円を握りしめて胡散臭いスーツ集団から抜け出し、ジュンク堂にヘッドスライディング、ずっとずっとここ2年ぐらい欲しかった植物の図鑑を買った。家に帰ったら、ジンを開けながら500ページ弱ほどもあるおニューの図鑑を最初から1ページずつ眺めるなどした。そして、今までに自然から学びながら、あるいは気まぐれな散歩の中で覚えてきた植物のページにいちいち付箋を貼っていった。いちいち。側から見ると甚だ狂者の所業であるけれど、ページに付箋が張っ付けてあることによって記憶探索スイッチがONになり、その植物に初めて出会った瞬間やその場所、花の芳香や色彩や容姿に感動したこと、名前を当てるにはここを見たらいいんだなと学んだ記憶が、これは走馬灯なんじゃないかと思ってしまうぐらいの勢いで湧き上がってくるから、俺にとっては必要不可欠な所業なんだと思う。少し勇気を出さないと買えない値段だからずっと渋っていた、というかその少しの勇気を出すのを面倒くさがっていて手を出していなかったけど、手に入れてよかった。幸せな時間が手に入った。これからも更なる幸せな時間が図鑑の中に織り込まれていくといいな。

 

本屋へ真っ直ぐに飛び込んだした今日の行動からして、未だどうにか、くすみや湾曲を知らぬ輝いた瞳を一部だけでも持ち続けられているようだなあ。お小遣いから本とかCDを買い漁っていた頃と同じじゃん、と思ってなんだか微笑ましかった。体裁的にはどう七変化しようとも、こんな直列回路みたいな思考回路を持ち続けていたい。

上昇負荷

産声とともに一度歯車が回り出したらもう誰にも止められない。

後ろを振り返ることはできても、もう二度とその時と全く同じ空気、感覚、温度、感情、は戻ってこない。

砂浜をなぞって浮かび上がらせた出来合わせの絵や文字が波に飲まれて次第に薄くなっていくのは、なんだか寂しい。

闇から目が覚めて、ふらついた顔で見上げた先に人生の最高があったとしても、ほんの少しだけ未来に目線が逸れただけで、涙が溢れてくるよな。

未来に進んでも最高だった瞬間との繋がりは切れることなんてないんだろうけど、欲しいのはそんなものじゃない。

目線を合わせた時の、何かとひとつになった時の感覚しかいらない。

けど、記憶だけではその感覚を再現できずに、ひとり、真っ暗なスクリーンを見つめる。

今まで何度、この感情を乗り越えようとしてきただろう。

乗り越えたと思い、勇気を出して足を踏み出した瞬間にまでも、感覚の喪失がつきまとう。

その失った感覚を強く求めすぎると、負荷が襲ってきやがるなあ。

やっぱり、シッダールタのようにガンジズを見つめて、喪失の哀しみを魂の全てで受け入れるしかないのかもしれないね。

そして、現実に対して鋭い視線を投げ続けること。

目の前のスクリーンに映る映像が現実ではない、射影機を握るその瞬間こそが現実なのだ、というあの言葉を魂の全てで信用できるようになりたい。

そうできれば、喪失の先の未来は怖くなくなるかな。

今は、その言葉への信用と、未だ確かに存在する喪失への恐れと、五分五分だな。

未来を見つめたい気持ちと、寂しさと。

28082022

初めて犬式のライブを観た。福岡は天神中央公園

福岡のラジオでREGGAEの音楽番組のMCをやってるひとが主催してるフリーイベントで(存在は今回初めて知った)、俺は北九州への出張の前乗りで偶然にも福岡市内にいたのだった。

 

ライブはというと、どうしようもない酔っ払いの兄ちゃんがひたすら石黒祥司煽りをしていたのがいい味を出していた。

石黒祥司!!!と曲の間に力強い声で連呼したり、

三宅洋平がTシャツ脱いだ瞬間、石黒祥司も脱げよ!!って叫んだり。

 

石黒祥司。

 

俺は石黒祥司のことがとても好きになってしまった。

仏のような表情をしていた。

 

 

三宅洋平は、魂の劣化した社会に対して徹底的に中指を突き立てていて、

瞳が恒星のように輝いていて、

自然への崇拝がそこには存在していて、

常にリラックスしていて。

 

人間への尊敬の心が渾々と湧き上がってきたのは本当に久しぶりのことだった。

 

NYでパーマカルチャーを実践している人たちは、街中のデッドスペースに覆い被されているコンクリを引っぺがしてそこにタネを植え、それが実ったらTake Freeという形で人々に分け与えていること。

アジアの高地で瞑想を実践する僧侶の話。

言葉や楽曲の奥に潜む学びと実践。

 

ここで観た犬式は、これから1,2年の内にこれからの道を大きく決定づける決断が控えているという確かな直感を感じている中、とても大きな前兆となるだろうという感覚を得た。

 

偶然イベントの日に福岡にいたこと。そのイベントには犬式が招待されていたこと。そして数日前にたまたまその情報を掴んだこと。そこで体験した言葉と音には人生加速させられちゃうほどのメッセージが乗せられていたこと。

 

人生にとって大切なイベントは予め全てセッティングされている、というあの言葉は決して幻なんかではなく、現実のものなんだな。

寝苦しい夜は星に向かって叫べ

暑い。暑いのです。夜が。

夜ってこんなに湿度高かったんだっけ。

夜と休日にしか着ないどうでもいいTシャツを破いてベランダから放り投げたくなるような不快さ。吸い込みにくい大気越しに煌々と見つめてくるアンタレスに向かって喚き散らしたくなるような不快さ。

喉がダメージを受けやすいからエアコンはタイマーで2、3時間までしかつけられない。強の扇風機に頼ってはみるものの、こいつは湿度までをもコントロールできない。

こんな夜に気分が上がる唯一のことといえば、窓際に置いてあるアグラオネマと食卓の上に置いてあるベゴニアが高湿度のおかげでイキイキとしていること。アグラオネマは夏になって脇芽がグングンと伸びてきて、もうすぐそこから1枚目の葉っぱが開きそう。かわいい。ベゴニアは根茎がどんどん伸びてきて、新芽が数多。かわいい。

気分が上がったところで、不快な夏の夜に隠れている楽しみをもうひとつぐらい見つけたい。

現実が悪いように感じられるのは、現実を捉える五感の角度が少しズレているから。

ただそれだけ。

 

湿度が高いことと関係しているのか分からないけれど、今年の部屋にはイエグモが多い。さっきも呑気に急須の茶漉しの上を闊歩するなどしていた。クモは眼が八つあるから嫌いなんだけど、イエグモはサイズがかわいいから目を合わさなければギリギリセーフ。いくら数が増えても全然ウェルカム。なんなら、今朝床掃除をしている時に見つけた紙魚の幼虫も、イエグモのご飯になるかなーと思って放っておいた。けど、増えるにしても限度は守ってほしい。

今は動物と一緒に暮らすことはできないから、いっぱいの植物と限度を厳守した数の益虫がいる部屋になったらいいと思う。

無機物ばかりの空間が嫌いなんだよ、ほんとうに。

文字を読むということ

MBTI性格診断でINFPが弾き出されるくらいには、言葉や文字による意思疎通よりもシンボリズム的なやり取りの方が得意であると感じる。言葉や文字を介したやりとりなど非効率的で、汚された美学であると感じる。心を打ち明けた人間に対しては、目線を合わせた時にふたりを行き交う何かが全てであると感じる。

俺はこんな人間だから、自然と文章、特に小説を愉しむ際には右脳をフル回転させ、茶色く煤けた紙に打ち付けられた一言一句を映像化し、できるものならその映像に匂いや温度、オーラなどをまぶし、それを再吸収するという作業をひたすら繰り返す。そして心に存在する、この行為を受け入れられるのに十分な余白の空間に比例して、映像のコマ数や解析度は増加していく。いわゆる、ヌルヌル動くってやつ。

けどこの行為は、文章を早く読み進める、といった観点から見ると効率が悪いかもしれない。気を抜くと一瞬で溶ける有限な時間。それと共にカウントダウンされていく、人生で読める本の冊数。辟易する、こともあるけど、極上の現在を脳内で創り上げることこそが極上の時間の使い方なのであって、芸術に過度に加速した時間を混ぜ込むことなど論外。

というわけでこの間の日曜も紅茶を淹れて呑気に小説を読んでいたわけだけど、その時ふと思った。文章から自分の脳内で作り上げる景色は、今まで観てきた映画や写真、ドラマやCMなどにかなりの割合で支配されていると。

ここで”支配されている”という言い回しを使ったのは、それがネガティヴという意味では全くない。映画を例に取ると、クッションのついた椅子に座ってアホ面晒しながら開演前のCMを観ることになるわけだけど、やはり開演後は日常よりも特濃で凝縮された時間が経過するし、泣く、泣く、泣く。能動的に興味を持って観た映画が最高だった時の感動は他の何にも変えられないし、ジャケ観した映画が最高だった時もまた然り。いつでも心の中で引用できる映画のセリフがあると、人生は紙を舌状に忍ばせて街に繰り出した時のような昂揚感に包まれる。そして何と言っても、自分が経験したことのない異世界に没入するという天国のような快感を享受する事ができる。

ただ、この映画などを観ることによって得られる未経験の異世界、という最後に辿り着いた天国はなんだか魅力が薄い。干瓢みたい。実態がなんだかよく分からないまま自分の体内に入り込ませてしまったもの、みたいな。そして映画で観た異世界という、なんだか味の薄いものをベースにして小説などの文章を映像化すると、脳内では芯の通らない、なんだか実態の無いような映像が完成してしまう。

では、ここで感じ取ったコアの欠如という違和感の正体は何なのだろうか。それは、匂いの欠落に他ならない。いや、欠如しているのは匂いのみではない。温度やオーラもだ。つまり、例えば砂漠みたいな、自分が今まで3次元世界で経験したことのないような異世界が映画などから脳内に入り込んできた時、それは単なる視覚聴覚的興奮のみが引き起こされているに過ぎず、嗅覚味覚触覚第六感的な情報が未知なる映像に含まれていない。それ故手持ち無沙汰な感覚器官は滑稽なことに、隣の友達が食べているチュロスの匂いや、その咀嚼音を脳内に送り込んでしまっている。小説に砂漠が出てきた時に、映画で得た視覚聴覚的情報しか含まれない記憶を参考にしながら文章を脳内で映像化したところで、ただただ芯の通らない映像が出来上がるのも無理はないよな。

じゃあその芯の通らない映像に実態感を持たせるためにはどうすべきかというと、やはり自分の体力と脚、時間、その他諸々を酷使して、この世に存在する多種多様な光の反射、香りや味の分子、物の触感、現地に充満するオーラなどを経験するしかない。『タイ 水牛のいる風景』を読んだ時、脳内では非の打ちどころのない映像が再生され、一文字一文字が体温に溶けて身体に馴染んでいく感覚を得たのは、自分がタイの地を踏んだ経験があるからだし、『アルケミスト』でサンチャゴが砂漠を歩いているシーンを読んだ時、脳内で創り上げた映像がどこかパッとしなかったのは、自分が砂漠を経験した事がないからに他ならない。

文章から自分の脳内で作り上げる景色は、今まで観てきた映画や写真、ドラマやCMなどにかなりの割合で支配されている。最初の方でこう書いたが、それらによって支配されている割合を、人生で積み上げた経験によって上から押さえつけられるようになることで、読書というものを最高の趣味にまで昇華させることができる。