梔子の香り

心臓が爆音を立てた不眠気味の朝、酷暑。

ベランダで花の匂いを嗅いでみたところで、リズムは加速するばかり。高速道路のスピードが部屋にまで侵入してきている。ハートまでもが共鳴してしまわないように、なんとか食い止める。けど今日も波に、乗れそうにない。ベランダでひとり飄々と風を受ける俺より年上の盆栽が、般若波羅蜜への入り口に思えてくる。飛び込みたい。飛び込みたい。飛び込みたい。飛び込みたい。飛び込みたい。天使が調香したとしか考えようのない芳香を無尽蔵に放ち続けるその源へと。うねり狂うその樹皮の内面へと。大地と抱擁を交わすその隠された部分へと。しかし暴れる心臓がもたらした高血圧や、飯の味を感じる余裕がなかったこと、更には目の前の生命に対する感情の喪失、こんな状態じゃ光明の欠片さえも掴めないよな。目の前の現実に対して、鋭い視線を投げつけること。これが答え。けど、今日も高速道路に乗った。スピードを求めてノロい奴らを追い越した。多分美しかったであろう周りの景色の記憶は無い。

 

太陽がスピードを刺した正午過ぎ。

ちょうど満開の梔子の香りを吸い込んだ瞬間、天国までトビそうになる。アブねーーと思って石段に腰を下ろす。太陽は12Gのニードルの束でスピードを刺し殺す。すると今度は薄い雲が尖り散らかした太陽を制し、丸い光が降り注ぐ。鳥が鳴く。鶴頂蘭の姿に見惚れる。スピードは鳴りを潜める。動きが止んだ瞬間、孤独がちょっくら顔を出す。近いうちに視殺すべき相手だが、とりあえず今は心を無にしてやり過ごす。メールを開く。他人とのやり取りの結果愛すべきこの世に産み落とされてしまった、至高の無味乾燥、と形容すべき文章を読んでわけわからん表情になる。もし紙だったら、エンデヴァーにでも頼み込んで灰までこの世から消し去ってしまうのに。もっと自由に文章を書きたい、というのが本音。その場のインスピレーションに身を任せながら、お前ら理解できんかったら何回でも読み直せや、みたいなスタンスで文章を書きたい。それでも理解できんかったらゴタゴタうるせー空気の振動を発するお前の声帯目掛けてきな粉でも流し込んでやるからとっとと俺の文章なんか捨てちまえ、みたいなスタンスで文章を書きたい。

 

暗くなる、狂気が浮かぶ。

他人と向かい合って会話を続けつつ、macbookで迅速に作業を進めている雰囲気を醸し出しながら、Finderの影にいつでも隠せるような配置でTwitterのタブを開いてSolazolaのおっぱいを眺める。至って真面目な表情を崩さぬまま、おっぱいを眺める。天井から一本の糸で吊られているような姿勢を意識しながら、おっぱいを眺める。こうしているうちに、見積もっていた帰宅時間を2時間もオーバーし(おっぱいだけのせいじゃない)、おっぱいによって覆い隠されていた空腹が途端に姿を現し、極限のストレスを感じた俺は帰宅途中、100mほど先に見える信号待ちの車を、今からアクセルを全体重で踏み込んで出すことのできる最高のスピードで後ろから轢き倒す妄想をした。破壊は芸術、なんてね、今日は湧き出るエネルギーを上手くコントロールできなかった。

暖かい冬

今回の年末年始も帰省をした。1週間半ぐらい。あっという間だった。

なんだか本格的に会う人間が固定化されてきて、本当に大事な人たちが洗練されて残っていく感覚と、相手も自分を求めてくれている感覚が混ざり合って、心地よかった。

けど、多くを求めなくともこれで満ち足りるよなって思う一方で、まだまだ未知で刺激的な人間に出会いまくりたいと思う自分もいて、頭の中がごちゃごちゃしている。

きっと刺激に向かって突っ走っている最中、刺激に飲み込まれそうになる自分を支えるのはいつもの大事な人たちなんだと、そう直感が言っているような気がする。

眼が良くなりすぎたのかもしれない

ベロッベロの頭で友達とポストヒューマニズムについて話した記憶がかすかにあるんだけど、酔いが覚めた今現在、ばらばらでまとまっていない自分の見解をとりあえず書き殴ってみる。気が向いたらいつかちゃんとまとめるかもしれない。

 

 

【about post-humanism】

以下の話は将来、

①ゲノム編集がノーリスクかつ大変安価に行えるようになった

②知能やルックスを決定する遺伝子が特定され、それをコントロールできるようになった

と仮定して進める。

 

・病気や障がいを誘発するような遺伝子を受精卵の時点でゲノム編集によって取り除くのは問題ないと考える。遺伝的な病気が発症してしまうことによって、本人やその周囲の人が受ける精神的・経済的負担は計り知れない。

 

(仮に、遺伝子のバグによって本人または周囲の人が望まない負担を被ってしまっている場合を”A”、遺伝子のバグは特に見当たらずにいわゆる健康体であると言える場合を”B”、遺伝子のバグは見当たらないかつ何か特定の形質あるいは能力をアップデートさせるためにゲノム編集を行なった場合を”C”、という風に説明のために仕方なく表現すると)

・上のように病気や障がいを誘発する遺伝子を取り除く、みたいな「A→B」方向の改変ではなく、知能をアップデートさせる、みたいな「B→C」方向の改変はどうなるだろう?

(またここで用いた”アップデート”とは、例えばミオスタチン(筋肉成長抑制遺伝子)を適切にコントロールできるようになって筋肉量を増やせるようになった、みたいな話。ミオスタチンのみの制御で筋肉量を調整できるかは知らんけど。)

 

・例えノーリスクで知能を上昇させるためのゲノム編集が行える技術ができたとしても、そういった遺伝子の改変によって得られるのは知能のポテンシャルのみであって、ゲノム編集された者(自分の子供etc)がその知能のポテンシャルを最大限引き出し、ゲノム編集されなかった者よりも生存や繁殖、価値の創出などにおいて優位に立てるようになる保証はどこにもない。

 

・ゲノム編集によって得られた知能のポテンシャルを、また物心がつくまでは知能のポテンシャルになど考えにも及ばない者を、ゲノム編集されていない者よりも優位に立てるレベルにまで成長させるには、幼少期の教育環境が大きな影響を及ぼす。

 

・つまりゲノム編集による高い知能のポテンシャルを持ちながらも、幼少期の教育の質が悪く、自らの知能を活かすことができていない場合と、生まれ持った知能は運で決まるが、幼少期の教育の質が高く、その生まれ持った知能を限界近くまで活用するコツを習得した者とでは、後者の方が優位に立つ可能性は高いと考える。つまり、ゲノム編集を行なった知能が絶対的優位であるとは必ずしも言えない。

 

・ただ、ゲノム編集を行わずに産まれてくる者の知能を運に任せるよりも、(幼少期に質の高い教育を受けられるかどうかは別として)ゲノム編集を行なってとりあえず高い知能のポテンシャルを得ていた方が、ゲノム編集を行なっていない者よりも優位に立てる確率が高まるじゃないか、運によって低い知能を引く可能性を排除できるじゃないか、という意見には今のところ反論できない。

 

・病気や障がいを誘発する有害遺伝子を取り除く行為は一般化し、その後ゲノム編集の対象範囲が知能やルックスにまで及んだとする。で、この場合、特にルックスに関しては、ただ単に産まれてくる子供が優位になれるようにゲノム編集するとはいっても、そこには多様な選択肢が存在すると考えられる。例えば、瞳を何色にするかとか。そしてこの多様な選択肢のうち、これとこれの形質をゲノム編集すれば子供は(ここでは特に繁殖的に)優位に立てるだろう、という決断をするのは親であるわけだけど、親は本当に”優位”の判断基準が正しいと自信を持って言い切れるのだろうか? 子供にとって、親の”優位”の判断基準がマイナスに働かないと言い切れるだろうか? 子供は自らのルックスが、親の遺伝子ではなく、親の意思によって形成されたことを受け入れられず、葛藤することは少なからずあるんじゃないだろうか?

 

・知能、ルックス、その他ゲノム編集可能な形質以外にも、人間の価値や魅力を決定する要因はいくらでもあるじゃないか。遺伝子ではなく、成長過程で育まれるもの。例えば豊かな感情とか、豊富な知識とか。また遺伝子のバグで望まない病気や障がいを抱えている人に笑かされたことや納得させられたこと、感動させられたことは多々ある。ーーーーーとも思ったけど、「そういう人たちが、好ましいとされるルックスや高い知能のポテンシャルを持ってはいけない理由は無くない?」という意見には今のところ反論することはできない。

 

・病気や障害の有無、見た目の形質などを含めたゲノムの多様性の存在価値とは、唐突な環境の変化にその種がうまく対応できるようになることだ、と言われている。例えば、ある日突然何らかの原因により紫外線量が爆発的に増加した場合、瞳や肌が薄い西洋人種の生存率は低下する可能性が高いが、瞳や肌が濃いアフリカ人種やアジア人種の生存率が低下する可能性は低く、結果としてアフリカ人種、アジア人種は生き残り、ヒトという括りでの絶滅は免れる、というような。そしてこれはただの一例で、環境変化の内容によっては、今の例の逆が起きることも十分有りうる。

 しかしゲノム編集が盛んになると、ゲノム多様性は現在よりも失われていく可能性が高いと思う。なぜなら、遺伝子のバグ(言い換えると、ゲノム多様性)は取り除かれて"B"の状態に均一化され、知能は高い方、ルックスはその時代に良いとされている方へと集約されていくと予想されるから。

 じゃあこれまでの生物学的概念に則り、ゲノムの多様性を失ったヒトは絶滅していくかというと、必ずしもそうは言い切れないと思う。先程の紫外線の例では、現代のヒトは爆発的な紫外線量の増加に対応するために何かしらの技術を爆速で開発するノウハウを持ち合わせているからだ。また、未来の環境変化を予測し、それを見据えてあらかじめ対策を練ることができるのもヒト特有の能力であると言える。つまり、環境変化を受けたり捌いたり躱したりできるという点では、人間はやはり他の動物からは逸脱した存在であると言える。

 加えて、例え自分の遺伝子が適応できないような環境の変化が起こったとしても、まずは自分がヒトの知恵によってその環境変化を乗り越え、次に産まれてくる子供のゲノムをその環境変化に適応できるように編集することで、種の存続を謀っていくようになるのかもしれない。”B”や”C”という一方向に向かってゲノムを編集し、ゲノムの多様性を失ったとしても、環境変化に応じてゲノムを次々と書き換えることのできるヒトにとって、ゲノム多様性の喪失は取るに足らない現象へと成り下がっていくことは十分にありうる。

 

・自分が顔面脱毛に通うのも、美容室に行ったり美容品を買ったりして容姿を整えるのも、筋トレをするのも、本を読んで知識を得るのも、体調を整えて自分のポテンシャルを最大限発揮できるように仕向けるのも、全ては生まれ持った形質や能力を改善したり最大化させて利して、自分が生存、繁殖、価値の創出などにおいて優位に立つための努力である。運によって決まった自分の形質や能力を受け入れ、改善したい部分とそそままでも構わない部分を取捨選択し、自分が望む方向へアップデートしてく過程である。しかし、元の生まれ持った形質が運ではなく、親の意思で決定されていたら? 例えそれが、親が優位に働くと判断して得られたものであっても、受け入れることができるだろうか?

 

・生まれ持った元の形質は、遺伝やそれに伴う運で決定されるからこそ受け入れられるのだ、という気持ちも少しある。しかしそれは、運によって"B"に産まれてきた人間の意見でしかないのかな?? 主観的にも客観的にも、どう見たって自分は"B"だ。

 

・結局人間は、社会全体における価値観に囚われている部分も少なくないのかもしれない。「こらから産まれる子供が優位に生きられるように、知能やルックスにまでゲノム編集を行った方がよくない?」「運によって能力や形質が決定されるより、ゲノム編集によって運の要素を排除できた方がよくない?」という意見に対して核心をつく反論ができないのも、これらの意見に対してどこかモヤモヤした感情を抱くのも、社会は現時点で、知能やルックスにまでゲノム編集を加えるのは倫理的に問題がある、もしくは議論が不十分である、という価値観を共有しているからで。

 

・しかし、これから安全面や価格面、正確性などにおいてゲノム編集の技術が音速で躍進するのは不可避だと思われる。そしてこの技術がヒトという種の飛躍に貢献するのか、はたまた昆虫の大繁栄に貢献するのかは定かでないが、知能やルックスにまでゲノム編集を加えても問題ない、むしろ子供のために積極的にゲノム編集を行うべきである、という価値観に社会全体が動いていけば、俺らはその社会に乗り遅れて蹴落とされないための行動を取らざるを得なくなるかもしれない。その社会についていくという決断をした場合は。

 

prefer offline

1年前ぐらいに唐突に思い立ってPS4を購入して、本当に久しぶりにゲームをしてみた。バイオ7と、モンハンと、エペ。自分のゲーム歴と言えば、小学校の頃にPS2があって、K-1のゲームで大好きだった山本kidを駆使して派手な試合を繰り広げていたことや、DSでマリオやポケモンをしていたぐらいもので、それ以降は自分でゲーム機さえも持っていなかった。それに加えて、中高大と駆け上がってきた過程でも友達の家で一緒にゲームをやったような記憶は特に無くて、コントローラーにタッチすることさえも本当に久しぶりのことだった。

で、張り切ってPS4を半年ぐらいやってみた結果、あんまり楽しくなかった。いや、楽しい瞬間は確かにあったんだけど、自分の中の楽しいランキングの上位には食い込まず、蹴落とされた感じ。読書・映画・音楽・散歩・紅茶・飲酒には到底太刀打ちできない程度の楽しさだったみたい。俺にとっては。

 

こんな回想をしてみたのは、ある記事を読みながら、「自分の一挙手一投足がバーチャル上の自分のアバターに反映されるようになった世界を想像したら面白いな」「じゃあこの前買ったPS4で行なった、自分の意思でバーチャル上のキャラクターを操る、という行動は何で面白いと感じなかったんだろう」って思ったからで。

その答えとして考えられるのはこういうことだろう。ゲーム内では、キャラクターに予め与えられた行動をコントローラーで選択して組み合わせた結果が画面に表示されているに過ぎない。それに対し、バーチャル上で自分の一挙手一投足が映し出せる世界では、もしそこに何かしらの制限が設けられていなければ、自分の脳が習得している限りのありとあらゆる行動をとることができる。。。

なんて書いてみたけどその一方で、「そもそもバーチャル上に自分を投影する意味って??」って思っちゃう自分も居て。

少なくともあと10年ぐらいは、読書飲酒演奏の日々が続きそうだなあ。

 

21112021

MONOEYESのライブを観に行った。いつぶりかなあ。会場はいつもの桜坂。

バァァァァーーーーーーーーーーァァーーーーーーァァァァーーーァァァンッッ!!!!!!って爆音が鳴った瞬間、普段不器用に接ぎ合わせて身に纏っていた大人の自分があっという間に吹き飛んで自然と笑顔が戻ってきて、本当に観にきて良かったと思った。

細美武士の言う通り、やっぱり俺らは路地裏の汚ねえライブハウスでしか深呼吸できない人間なんだよな。

一生、爆音とベロ突っ込み合って、抱き合って、囁き合って生きていたい。

なんなら天国でも。

音が共鳴しないくらいまでハートが硬くなってしまうなんて、馬鹿らしいにも程があるよな。

夜明け

N君と一緒に図書館みたいなところにいた。

図書館にいたときの記憶は断片的。

お堅めの本が並ぶ本棚の前で、2人で地べたに座り込んでいたこと。2人で何か話していたこと。

(これより下は1人での記憶)

図書館の中を時々走り回って何かを探していたこと。

近くにEちゃんとCちゃんがいたこと。

なぜか運動会のイメージが頭に残っていたこと。

O君に会ったこと。O君は絵本を探していて、見つけた絵本を俺に見せてくれたこと。その絵本に対して俺は、「なんか絵がモネみたいだね」って言ったこと。けどその絵本では、モネの絵よりももっと明るい色を使っていた。そしてほとんどの絵は海というか空というか、何か広大で青いものがベースになっていて、その中心にポツンと動物をモチーフにした絵が描いてあった。ページを捲るごとに、その動物の絵だけが移り変わっていった。

 

次に、親戚のおじさんに会った。話をしていたら秘密のゲートみたいなのを教えてもらったから、1人で入って行った。本当は1人だけで入って行きたかったみたいだけど、N君も後からついてきた。入ると、いくつか曲がり角がある廊下があった。その廊下は高級感があった。2人は奥まで恐る恐る進んでいった。そしたらこれまた高級な部屋みたいなところにたどり着いた。アジアの富豪が行く病院みたいだ、という印象を受けた。部屋は一見誰もいなかったけど、声をかけてみると中から返事があって、ドクターが出てきた。インド人みたいだった。背が高くてスラっとしていた。そのドクターはまたさらに奥にいる日本人のドクター(名前はあったけど忘れた)に声をかけて、俺らのことを紹介した。日本人ドクターは俺らに向かって、「原爆とか、〜〜〜(危険な類のこと)を生き延びる方法知りたい?」みたいなことを言ってきて、俺らはそれに同意した。そしたら奥の実験室に通されて、日本人ドクターは明らかに有毒な濃いピンクあるいは紫の液体をどこからか持ってきて、足元にある容器に手荒く注ぎ始めた。ほんとに手荒かったから、その液体はドクターの顔の防護マスクに飛び散り、俺らの足元にまで飛び散ってきていた。俺はズボンと靴下の間の少し肌が露出していたところに液体が数滴かかって、その心配で頭がいっぱいになった。その滴が飛び散ったところから皮膚が焼けて溶けていく想像をした。ドクターが液体を注ぎ終わり、容器の中を見てみると、濃いピンクあるいは紫だった液体は、15個ぐらい、直径2cm、半透明の球状の結晶に変わっていた。注ぐときに容器を液体窒素か何かで冷やしていたんだろうか。そしたら次の瞬間、おそらくその結晶からであろうか、毒ガスみたいなものが発生しているみたいだった。ドクターは俺らに向かって、タオルで口を塞げ、みたいなジェスチャーをした(言葉は何も発さなかった)。横のN君をみるともう既にタオルで口を覆っていて、それを見た俺は慌ててそこら辺のタオルを拾って口を覆った。するとドクターは俺らのタオルの折り畳み方に納得がいかなかったみたいで、結構雑に畳み方を教えられた。どうやらその畳み方をすれば、防護メガネにタオルを引っ掛けられるようになるみたいだった。そして俺らはその教えに従ってタオルを畳み直そうとするけれど、ドクターの教え方が雑だったせいか、なかなか上手く畳めなくて、俺らの手こずる様子に痺れを切らしたドクターがブチギレた。

アルコールを通してしか見えない美しさがある

アルコールを通してしか見えない美しさがある。
肥大した大脳新皮質によってもたらされた、カメラ技術の進歩。
解析度の向上によって脳が眩むほど強調された、ヒトやモノの輪郭。
明晰な輪郭によって形成された、個人と世界との壁。
画面を通して見る世界は、鋭利で、冷徹で、触れるのさえ憚られる。
こんな退化した世界酒瓶で叩き割って、アスファルトに飛散したアルコールを舐め尽くす。
はは、朦朧な世界よ、久しぶり。
視界は8mmよろしく。
輪郭が崩壊した世界と抱き合おう。

06112021

ネットをいじっていたら小学校からずっと仲が良かった友達の投稿が目に飛び込んできて、籍を入れて妻になったみたい。

速攻でメッセージを送ってやりとりをしていたらめちゃくちゃ感慨深くなってしまって、それに秋の空気感も相まって号泣しそうになった。というか夕方の車の中でひとり号泣してしまった。めちゃくちゃ照れ臭い。

他の友達が結婚しても「お、結婚したん!おめでとー」ぐらいの感じだったのに、こんなに感動して泣けてきたのは初めての体験だった。式はやる予定みたいだから、ハンカチをポケットにパンパンに詰め込んで行こうと思う。大泣きする覚悟はできた。

この友達とはもう仲が良い時間が長すぎて俺らの間には何か独特な間と空気感が漂っていて、このポジションはは他のどの人間にも置き変えられない。直接聞いたことはないんだけど、っていうか聞けなんだけど、この友達も俺に対して同じようなことを思っていると、前からそう感じている。

 

やりとりの最後に「お前も良い人見つけるんだぞ」って言われた。

うん、俺もそう思う。

05072021

🐸 目の前に聳え立っているchromeのウィンドウや科学書や図鑑や論文を全てシャットアウトしてどっかに逃げ出したい気分になってきたから、素直にそうした。骨が砕かれそうなほどの紫外線だったけど、気にせずバイクに乗ってジュンク堂に行って、いつもは値段を気にして買わない新品の本を買った。ただでさえ人がまばらなB1に平日に行ったもんだから目的の列は独り占め、みたいな感じで、めぼしい本があったら帯を摘んで少し手前に引っ張り出したりしながら直感と会話して選ぶことができた。楽しいんだよな、この選び方。何で久しぶりに新品の本を買ったかというと、友達に誕生日プレゼントで図書カードを貰ってたからで、その分値引きされてやっぱりうれしかった。そして帰途で適当に食いもんでも買って帰って、プライムデーで買ったジンを飲みながら本の中に逃亡したら頭のショートは収まって一件落着、また世界に立体感が戻ってきた。こうやってね、たびたびやってくるノイズみたいなものにいつも素直に対処できればいいんだけど、ノイズがだんだん増幅されているのが分かってるのに、頭に情報が入り込みすぎているのが分かっているのに、目の前に聳えるものがそれはそれで魅力的で、それから情報を取り込むのをやめられなくて結局ある日ブレーカーが落ちる、みたいな事も結構あるわけで、ほんとどうすればいいんだろうね、まったくね。歳を重ねたらもう少しは生き方上手くなるかなー。

 

🐸 で、誕生日プレゼントの話の続きで、その友達はまあまあ誤差あるな(俺まだ誕生日に向かって助走も初めてないけど)、ってタイミングでプレゼントをくれたんだけど、図書カードの他にも、俺が自分からは絶対に手を出すことはないけど読んだら読んだでめっちゃ面白いと感じるライン上にある、みたいな本をくれた。とても最高だった。さすがTSUTAYA店員だと思った。何がいい?って聞かれて貰うプレゼントも100%の確実性があってめちゃくちゃいいんだけど、こうして不意に貰う核を突いたプレゼントはほんとうに最高だと思った。こんなプレゼントをさらっとあげられる大人になりたいと思った。

19062021

インターネットってやっぱり面白いよな、って今更思ったっていう話なんだけど、やっぱりインターネットには底知れない面白みがある。

 

みたいな小泉進次郎構文を全力でイジり倒すbotツイッターに存在していたり。

全くもって興味を持てない人間が目の前で何かを一生懸命力説しているとき、机の下で、住処も名前も知らない惹かれるひとと映画に関するテキストメッセージをくり広げることができたり。

セールの時間を待たずにかごに入れてしまった品物が、その時間になると、勇気を出して店員に「あ、、すいません、、、値引きのシール、、、お願いしてもいいですか、、??」っていちいち声をかけなくても勝手に値引きされていたり。

一度知り合ってめちゃくちゃ波長が重なって話が盛り上がったけど、次会えるのはいつになるかわからない、そもそももう次会うのは天国になりそう、みたいな人とお互いにフォローし合っておくことで、

「お、あいつフジロック行ったんだ、俺も行けばよかったな」

「お、あいつ猫飼い始めたんだ、かわいーー」

ぐらいの距離感は保っておくことができたり。

 

で、今存在するインターネットの使い方が、それが持つポテンシャルの氷山の一角だけだって考えたら頭の中が満開のお花畑になる。

そして結局、俺たちは人間を心から愛しているのかもしれないね。

 

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