闇雲

掻暮生活リズムの狂ってしまった近日のある丑の刻、次第に暗順応してきた眼球とやわらかな黄光とでもってドストエフスキーの『地下室の手記』を読み進めていた。初めて人の手に渡る本の匂いはどうしても好きになれないが、時間潰しにやむを得ず手に入れたものだからしょうがない。購入した日はそのままカフェで雑踏に紛れてチャイをすすり、露ほどしか集中力の続かない自分と懸命に格闘しながらようやく半分手前まで到達し、その後はバーへ行き居酒屋へ行きアルコールに殺られてしまった。酩酊から醒めた後にはしおりを何十ページも移動させるだけの十分な時間はあったものの、眠たかったり、ビートルズの練習をしたり、また飲みに出かけたりで、これまた読みかけのモームの小説の上に置きっぱなしになっていて、裏表紙にうっすらとホコリが舞い降り始めていた。黄光に照らされて急に存在感を増したそれにふっと息を軽く吹きかけたのは、それを一気に読み終えてしまった日だった。卒爾に、読み切ってしまおうと思った。紅茶休憩を挟みつつページをめくり続け、ついに最後のページにたどり着き、パタンと本を閉じた。よく理解できなかった。読みながら、雲を掴むような、あるいは月光のない森林をさまよっているような、そんな実態の無いものに向かって無様に挑んでいる気持ちになっていた。晦冥の森の木々に触れ、樹皮の質感を確かめることはできた。ただ森の輪郭が掴めなかった。一読・一見・一聴で全てを知り尽くすことのできてしまうモノはくだらない、と思っている。今この瞬間目の前に横たわるトーマス・マンの『魔の山』や『ヴェニスに死す』なんかもそのような意味では最高傑作なんだろうけど、一度も完読した試しが無く、頃合いを見計らってはそれらの高い要塞を越えようと試みること複数回、語彙力の乏しさが原因なのだろうか、やはり途中まで描きかけていた話の輪郭を失ってしまう。唯それよりも、窮屈な文字の羅列が瞼の裏に描き出させる、陽の目を見ない陰鬱冷酷な欧州の街並みや、そこに溶け込む、いや、溶け込むのは到底不可能な人々が持つ自分とは源流を異とする思想や、経験した者のみが享受することのできる喜悦や憂愁、快楽を共有できないほうが心苦しい。経験が足りないのは分かっている。けど此処で言う経験というのは書物を積み重ねれば得られるものでは決して無いし、かといって金と体力をはたいてインドシナを駆け巡ったり、ネオンの街へ飛び込んだりしに行ったってばったり出くわすとも限らないが、もうすっかり心に巣食ってしまった虚無感を弄ぶといった、謂わば文明とは決別した廃人のような生活を繰り返すうちに、出所不明な経験がいつのまにか血潮の一部と化していることだってある。時たまに、手荒い扱いで塵の積もったデスクに放りやられた新旧の書物の重なりを眺めては虚栄心が頭角を現してしまうのを恥じ入らずにはいられない。かといって、ずっと力のない目で青空やヒヨドリや女の出で立ちをぼうっと見つめてみたとて、これだけではいけない。双極だ、この世の全て。物質も、非物質も。具現化できるものも、できないものも。双極の輪廻を何度辿れば.....。ただ、闇雲に一歩踏み出したその先が真っ暗な孤独へと続いているのか、それとも血流が逆流して思想や信仰が燃え去ってしまうような経験と鉢合わせするのかわからないまま繰り出すトリップは、不変を源とする退屈を拭い去るほどの力を有している。