無題

 ゴールデンウィークの真っ只中、母親から突然親戚の訃報を受け取り、故郷へと大急ぎで飛んで帰った。全くもって想定などしていなかった事実に対する焦りと悲哀とが、幾何学模様のように頭の中を規則的に駆けずり回っていた。受け取った文面をじっと見つめ、涙がこぼれそうだったが、それには嫌気がさして冷たいコンクリートの天井をボーッと眺めた。真摯に、客観的に、物事について考えを巡らせ、個の思想を核に持ちながら目の前の事象に相対することができるようになってから、身の回りに死が転がり込んで来たのはこれが最初のことであった。いや、けれども真実を吐露すると、彼女の死が少々つま先を伸ばしながら手を伸ばせば届く距離まで接近してきていることは、どこかで想定していた、と思う。生ける者の死に際の情景を妄想することが稀にある。自分の死に際は、ある時はクヌルプがそうであったように、孤独と戦い切った末、空の青が反射しそうなほど真っ白な雪に埋もれて息絶えていて、またある時は角度の至極緩やかで柔らかな日差しの差し込む病室で、家族のような者たちに最期の優しい言葉をかけていることだってある。はじめに、死を想定していなかたったなどと非事実を述べてしまったのは、社会や上っ面の人付き合いを生き抜かんとする俺が、くそったれで微塵の価値もない妄想の頭を力尽くで上から押さえつけていたに過ぎない。なに、気にすることなどない。普段は監禁されている彼らは、看守の目が甘くなるごく僅かな瞬間を決して見逃さず、いたずらっ気のある笑顔を浮かべながら姿を表し、短い言葉の断片やなんとも形容し難い形をしたイメージをひょいとこちらに向かって投げ捨てては、元の場所へそそくさと帰ってゆく。

 帰郷の話を続けよう。今年に入って最も急ぎながらことを運んだにも関わらず、たいへん稀なことに何も忘れ物をしないまま搭乗することができた。2018年度は国外線に乗ること計3回、そのうち2回は大きな忘れ物をした。充電器を置いてきてしまったのを悟ったときの絶望感ときたら、ポケットから札束を抜かれた時のそれに等しい。成人式での帰省から約5ヶ月後であった。正月の空に同化するかの如くグレーの布ですっぽりと覆われていた空港は、利便性とグローバル化とを惜しげも無く前面に押し出した新しい姿へと豹変していた。その割には異国人が少ないな、などと頭の中で書き連ねながら茫と地下鉄の改札を通り抜けた。かっちりと身を固めた彼彼女らは、感嘆たる身のこなしで我先にと人混みをかいくぐっていたが、その片手に握りしめたコーヒーの味を楽しんだことがはたしてあるのだろうか。上物のコーヒーがドーピングになっていやしまいか。これは他人に対する外面的な心配事ではない。急いでいる俺に対する内的で警告的な問いだ。いち早く実家の畳の香りに包まれながら柴犬の腹を撫でてあげたい欲求を制し、友達に会うべく、人の五月蝿い繁華街に降り立った。ごめんよ、人間社会に身を置いて残り時間を擦り減らしてゆく間は、友人関係を優先せずにはいられないのだよ。とっても面倒で厄介で煩わしいけどね、続けていると偶にラッキーなことが舞い降りてくるんだ。けど、犬社会でも同じようなことかもしれないね。次の夏には11歳を迎えようかという君が、長い間特段親密でもなかったご近所さんと近頃は共に大はしゃぎしていると聞いたり、僕ら人間の隙をついては脱走して隣の田んぼに飛び込む姿を見たりすると、もし俺が老人になったとしたら、君のような生き方をしたいといつも思うんだ。

 東向きの窓から突き刺さる強烈な朝日が閉じた瞼越しに降り注ぎ、休日にしては早めの目覚めを迎えた。微かな寝息の振動を感じられるほど近くで寝ていたはずの柴犬は、もうとっくに活動を始めていた。帰省が決まった瞬間、一緒に散歩に出かけようという決断がまず第一に浮き上がってきたので、それを実現すべく勁烈な太陽光を眼球に叩き込み、両親を起こさぬよう地面が軋む音を殺しながら階段を下った。彼の散歩は長い。調子が良ければ1時間くらいだろうか。彼は人を選ぶ。父の時は距離は短め。母と俺の時は長め。さらには俺限定で猛烈にダッシュする。俺は長い散歩ダッシュの相手に選抜されてとても誇らしい。散歩から戻ると朝食を掻き込み、毛嫌いしている革靴に足をはめ込み、斎場へと向かった。遠慮がちに、少しの畏れと表現しようのないほどの尊敬を持って棺の中を覗き込んだ。俺に髪を結べだのと小言を言ってきた親戚のおばさま方は、綺麗な顔をしている、などとヒソヒソ話し合っていたが、俺は、彼女はどんな空間で臨終を迎えたのだろうか、という妄想をまたもや繰り返していた。安楽死のように穏やかで、肯定的であってくれていたらな、と要らぬ私感の混じった妄想をしたが、後に聞くと、どうやらその対極のようであった。

 式の直前、左隣に座っていた滅多に会うことのない親戚のおじさんと旅の話をした。そのおじさんは40代で、今は関東、何年か前はデトロイトで仕事をしていたことぐらいしか知らないが、幼い頃から、会う度に目の玉が見えなくなるほどニコニコして優しくしてくれている。彼は学生であった90年代中頃に、始めてバックパックでタイに降り立った思い出や、インドを鉄道で横断したり、その途中ダライ・ラマを見に行けると謳った偽のツアーに騙されて所持金の大半をスられたエピソードを、経験豊富な深い大人の声でして聞かせてくれた。話の最中、96年に撮られた Steve Mccurry のコルカタでの写真が鮮明に、もしやすると匂いや蒸し暑ささえも伴いながら、脳裏に浮かび上がってきた。その写真の空間に足を踏み入れようとしたその刹那、式開始の旨が全体に告げられ、その試みは自然と遮断された。亡くなった彼女には本当に良くしてもらった。俺が誕生した時は、1時間に1本しかバスが来ないほどの田舎から、バスや地下鉄を乗り継いで遥々姿を拝みに来てくれたらしい。他にも語り尽くせないほどの、惜しげもない献身をしてくれた。寝落ちしそうなほど退屈で抑揚の効かない式の最中は、彼女が曲がった腰でよたよたと歩いてきて空いた右隣のパイプ椅子にそっと腰を下ろし、こちらに目配せして、全て分かっているよ、と言うかの如く少し遠くを眺めて微笑む情景を妄想しては、独り勝手に泣きかけていた。また、全てが前に動いた。