眼が良くなりすぎたのかもしれない

ベロッベロの頭で友達とポストヒューマニズムについて話した記憶がかすかにあるんだけど、酔いが覚めた今現在、ばらばらでまとまっていない自分の見解をとりあえず書き殴ってみる。気が向いたらいつかちゃんとまとめるかもしれない。

 

 

【about post-humanism】

以下の話は将来、

①ゲノム編集がノーリスクかつ大変安価に行えるようになった

②知能やルックスを決定する遺伝子が特定され、それをコントロールできるようになった

と仮定して進める。

 

・病気や障がいを誘発するような遺伝子を受精卵の時点でゲノム編集によって取り除くのは問題ないと考える。遺伝的な病気が発症してしまうことによって、本人やその周囲の人が受ける精神的・経済的負担は計り知れない。

 

(仮に、遺伝子のバグによって本人または周囲の人が望まない負担を被ってしまっている場合を”A”、遺伝子のバグは特に見当たらずにいわゆる健康体であると言える場合を”B”、遺伝子のバグは見当たらないかつ何か特定の形質あるいは能力をアップデートさせるためにゲノム編集を行なった場合を”C”、という風に説明のために仕方なく表現すると)

・上のように病気や障がいを誘発する遺伝子を取り除く、みたいな「A→B」方向の改変ではなく、知能をアップデートさせる、みたいな「B→C」方向の改変はどうなるだろう?

(またここで用いた”アップデート”とは、例えばミオスタチン(筋肉成長抑制遺伝子)を適切にコントロールできるようになって筋肉量を増やせるようになった、みたいな話。ミオスタチンのみの制御で筋肉量を調整できるかは知らんけど。)

 

・例えノーリスクで知能を上昇させるためのゲノム編集が行える技術ができたとしても、そういった遺伝子の改変によって得られるのは知能のポテンシャルのみであって、ゲノム編集された者(自分の子供etc)がその知能のポテンシャルを最大限引き出し、ゲノム編集されなかった者よりも生存や繁殖、価値の創出などにおいて優位に立てるようになる保証はどこにもない。

 

・ゲノム編集によって得られた知能のポテンシャルを、また物心がつくまでは知能のポテンシャルになど考えにも及ばない者を、ゲノム編集されていない者よりも優位に立てるレベルにまで成長させるには、幼少期の教育環境が大きな影響を及ぼす。

 

・つまりゲノム編集による高い知能のポテンシャルを持ちながらも、幼少期の教育の質が悪く、自らの知能を活かすことができていない場合と、生まれ持った知能は運で決まるが、幼少期の教育の質が高く、その生まれ持った知能を限界近くまで活用するコツを習得した者とでは、後者の方が優位に立つ可能性は高いと考える。つまり、ゲノム編集を行なった知能が絶対的優位であるとは必ずしも言えない。

 

・ただ、ゲノム編集を行わずに産まれてくる者の知能を運に任せるよりも、(幼少期に質の高い教育を受けられるかどうかは別として)ゲノム編集を行なってとりあえず高い知能のポテンシャルを得ていた方が、ゲノム編集を行なっていない者よりも優位に立てる確率が高まるじゃないか、運によって低い知能を引く可能性を排除できるじゃないか、という意見には今のところ反論できない。

 

・病気や障がいを誘発する有害遺伝子を取り除く行為は一般化し、その後ゲノム編集の対象範囲が知能やルックスにまで及んだとする。で、この場合、特にルックスに関しては、ただ単に産まれてくる子供が優位になれるようにゲノム編集するとはいっても、そこには多様な選択肢が存在すると考えられる。例えば、瞳を何色にするかとか。そしてこの多様な選択肢のうち、これとこれの形質をゲノム編集すれば子供は(ここでは特に繁殖的に)優位に立てるだろう、という決断をするのは親であるわけだけど、親は本当に”優位”の判断基準が正しいと自信を持って言い切れるのだろうか? 子供にとって、親の”優位”の判断基準がマイナスに働かないと言い切れるだろうか? 子供は自らのルックスが、親の遺伝子ではなく、親の意思によって形成されたことを受け入れられず、葛藤することは少なからずあるんじゃないだろうか?

 

・知能、ルックス、その他ゲノム編集可能な形質以外にも、人間の価値や魅力を決定する要因はいくらでもあるじゃないか。遺伝子ではなく、成長過程で育まれるもの。例えば豊かな感情とか、豊富な知識とか。また遺伝子のバグで望まない病気や障がいを抱えている人に笑かされたことや納得させられたこと、感動させられたことは多々ある。ーーーーーとも思ったけど、「そういう人たちが、好ましいとされるルックスや高い知能のポテンシャルを持ってはいけない理由は無くない?」という意見には今のところ反論することはできない。

 

・病気や障害の有無、見た目の形質などを含めたゲノムの多様性の存在価値とは、唐突な環境の変化にその種がうまく対応できるようになることだ、と言われている。例えば、ある日突然何らかの原因により紫外線量が爆発的に増加した場合、瞳や肌が薄い西洋人種の生存率は低下する可能性が高いが、瞳や肌が濃いアフリカ人種やアジア人種の生存率が低下する可能性は低く、結果としてアフリカ人種、アジア人種は生き残り、ヒトという括りでの絶滅は免れる、というような。そしてこれはただの一例で、環境変化の内容によっては、今の例の逆が起きることも十分有りうる。

 しかしゲノム編集が盛んになると、ゲノム多様性は現在よりも失われていく可能性が高いと思う。なぜなら、遺伝子のバグ(言い換えると、ゲノム多様性)は取り除かれて"B"の状態に均一化され、知能は高い方、ルックスはその時代に良いとされている方へと集約されていくと予想されるから。

 じゃあこれまでの生物学的概念に則り、ゲノムの多様性を失ったヒトは絶滅していくかというと、必ずしもそうは言い切れないと思う。先程の紫外線の例では、現代のヒトは爆発的な紫外線量の増加に対応するために何かしらの技術を爆速で開発するノウハウを持ち合わせているからだ。また、未来の環境変化を予測し、それを見据えてあらかじめ対策を練ることができるのもヒト特有の能力であると言える。つまり、環境変化を受けたり捌いたり躱したりできるという点では、人間はやはり他の動物からは逸脱した存在であると言える。

 加えて、例え自分の遺伝子が適応できないような環境の変化が起こったとしても、まずは自分がヒトの知恵によってその環境変化を乗り越え、次に産まれてくる子供のゲノムをその環境変化に適応できるように編集することで、種の存続を謀っていくようになるのかもしれない。”B”や”C”という一方向に向かってゲノムを編集し、ゲノムの多様性を失ったとしても、環境変化に応じてゲノムを次々と書き換えることのできるヒトにとって、ゲノム多様性の喪失は取るに足らない現象へと成り下がっていくことは十分にありうる。

 

・自分が顔面脱毛に通うのも、美容室に行ったり美容品を買ったりして容姿を整えるのも、筋トレをするのも、本を読んで知識を得るのも、体調を整えて自分のポテンシャルを最大限発揮できるように仕向けるのも、全ては生まれ持った形質や能力を改善したり最大化させて利して、自分が生存、繁殖、価値の創出などにおいて優位に立つための努力である。運によって決まった自分の形質や能力を受け入れ、改善したい部分とそそままでも構わない部分を取捨選択し、自分が望む方向へアップデートしてく過程である。しかし、元の生まれ持った形質が運ではなく、親の意思で決定されていたら? 例えそれが、親が優位に働くと判断して得られたものであっても、受け入れることができるだろうか?

 

・生まれ持った元の形質は、遺伝やそれに伴う運で決定されるからこそ受け入れられるのだ、という気持ちも少しある。しかしそれは、運によって"B"に産まれてきた人間の意見でしかないのかな?? 主観的にも客観的にも、どう見たって自分は"B"だ。

 

・結局人間は、社会全体における価値観に囚われている部分も少なくないのかもしれない。「こらから産まれる子供が優位に生きられるように、知能やルックスにまでゲノム編集を行った方がよくない?」「運によって能力や形質が決定されるより、ゲノム編集によって運の要素を排除できた方がよくない?」という意見に対して核心をつく反論ができないのも、これらの意見に対してどこかモヤモヤした感情を抱くのも、社会は現時点で、知能やルックスにまでゲノム編集を加えるのは倫理的に問題がある、もしくは議論が不十分である、という価値観を共有しているからで。

 

・しかし、これから安全面や価格面、正確性などにおいてゲノム編集の技術が音速で躍進するのは不可避だと思われる。そしてこの技術がヒトという種の飛躍に貢献するのか、はたまた昆虫の大繁栄に貢献するのかは定かでないが、知能やルックスにまでゲノム編集を加えても問題ない、むしろ子供のために積極的にゲノム編集を行うべきである、という価値観に社会全体が動いていけば、俺らはその社会に乗り遅れて蹴落とされないための行動を取らざるを得なくなるかもしれない。その社会についていくという決断をした場合は。