nostalgia!!!!!

今にも押し潰されてしまいそうなお店に足繁く通うのが、好きだ。

ジャンルは問わない。

CD屋だって、飲み屋だって、ラーメン屋だって。本屋だってそうだ。

明日、道路拡張の通達が来てすぐにでも立ち退きを迫られるかもしれない。

カネが尽きて店主が飛んでしまうかもしれない。

格好の良い戦闘機が轟音をまくし立てながら落ちてくるかも。

といった使い捨ての妄想を次から次へと生み出しながら、

輪郭のぼやけた紅い雲がギラギラと輝く黄昏時、いつもの道で、いつもの古本屋へと向かった。

不自然とまで感じられるほどに雲が燃え上がっていたのは、香港の激動のせいだ、と思った。

たった1500kmほど先では、民主主義を奪取するため、同年代の人間が非暴力を掲げて仇敵を打ちのめそうとしたり、催涙弾の処理をしたりしていることを想像すると、平素から腐りきった生ぬるい生活を営んでいる自分自身を恥じずにはいられない。前の選挙には、行かなかった。ポスターに映る疑惑の作り笑いを見せられても、この人に託してみるか、といった信頼感や期待感は微塵たりとも生じた試しはない。どれだけ公約が真っ当なものであってもだ。労力を割いてまで、人に何かを託すのは非常に難しい。主義とはなんだろう? 民主主義とは? 民主主義以外の世の中で渡世したこともないから比較のしようがない。しかし民主主義が世に蔓延している以上、それと関わりを持たずにいることも難しい。

思考の幅を広げなきゃな、と心に誓いながら、チェ・ゲバラのポスターが掲げられた古本屋の扉を物憂げに押し開けた。

体を横に傾け、気持ちお腹を凹ませないと通れないほどの書棚の隙間に、夢中で1時間くらい身を置いていた。

時が早く感じられるような体験を数多くすることができれば、寿命って縮まるんだろうか、といつも思う。

これが本当であれば、名著に出会えばであるほど、尊敬する人を観て涙を流せば流すほど、錯綜の世界へ入り込んで行けば行くほど、このカラダと共にある時間を、すごい早さですり減らせるのに。

盲目的に生を繋ごうとする老人とすれ違う度に、このような姿は自分の人生ではない、と直感的に感じる。

長生きなんて胸糞悪い。40年もあればそれでいいだろ。それでもありすぎるぐらいだ。

ただ、崇高な作品は、自分が年を重ねる毎に、以前とはまったくもって異なる新たな表情を露見させてくれることを理解したことにより、衰弱しきった皺だらけの手のひらで、20代の今を形作った書物のページを捲ってみたい、と妄想しているという事実もある。

前途はどちらに転ぶのか。

自分の内側、自分が見つけきれていない自分は、知っているのだろうか。

 再び外側に意識を戻すと、『狂った季節』と記された背表紙がふと目に入り、老人の手を引くように、そっと表題の羅列の中から引き抜いた。

筆者は広津和郎、とあった。またひとつ、知らない世界に触れられて、歓喜一色。

裏表紙を見る。鉛筆の荒い筆跡がこう言っていた。2500円也。

初版だった。

つい先日新著に4000円程注ぎ込んだ学生には少し高価に思えて、そっと元の場所に戻しておいた。

芸術に対して惜しげも無く金を注ぎ込むことができないのはとてももどかしい。

金があれば、日の目を浴びずに、古きよき香りをカバーの中にしまい込んでいるその本を救い出すことができるのに。

いつもレジ横に腰を下ろしている女性の店員は、どれだけの日陰者達を救済してきたであろうか。

結局、褐色のカビがこびりついたトルストイの作品だけを片手に、狭苦しい楽園から、暗転した世界へ。

視界のよく通らない暗闇と、目に染み込んでくるような湿気に跳ね返された意識は、行き場所を失い、内へ内へと潜り込む。