ここ1ヶ月ぐらいは下から足を引っ張られ、上から手を引き上げられ、その力が平均するとちょうど同じぐらいでなんとか真ん中と呼べる位置にとどまっていたような、そんな感じだった。

下の方にいるのは、これから否が応でも組み立てていかなくてはいけない全く興味関心のない人との人間関係で、、ああ顔を思い出しただけでもめんどくさくなるな。またインドにでも逃げ出して、5分前に知り合ったインド人たちと中学生みたいな会話をして他の一切をその瞬間だけでも頭の中から抹消したい。

金曜日にある1対4の心理学の授業では第1回目から、生きる意味を考えてみよう、と言われた。そんなもの平均寿命を全うしたとしても手の内に掴めるものではないと思っていたのに、たった15回で一冊の本の中からそれを形にしようというのかな。教授の彼は、生きる意味をずっと考え込んでいる状態は正常ではない、といった趣旨のことを言っていて、俺はやっぱり正常な状態にはないのか、と自分を客観視していた。なんだろうなあ、生きる意味って。死後も含めた世界で自分に降りかかる全てのことが自分の選択の結果であるとしたら、生まれたっていうことも自分が選んだことなのかな、なんて考えていた。誰も口には出そうとしないけれど、その反対の死ぬ機会だって腕を伸ばせばすぐにでも掌で弄ぶことができる。もしかすると生きている時にしか得られない何かがあって、それを見つけていくために生まれるって選択をしたのかも。こんなことで頭を充満させるとどん底に落ちてしまうから、ここら辺で止めておく。

上の方にいるのは、憧れのMateusAsatoを生で観ちゃったこと、坂本慎太郎のライブが1ヶ月後に迫っていること。MateusAsatoが小さなライブハウスのボロいアンプから鳴らす音は、秋の終日の情景を丁寧すぎるほどに、見事なほどになぞり、表現していた。聴き手の頭の中に埋まっている美しい記憶を引き出すことによって完成する音楽はたいへん素晴らしい。彼が一生のうちに鳴らし出す音は、生であろうとなかろうと、くまなく俺の耳に入ってくるだろうと思った。坂本慎太郎は、どんなファッションでステージに立つかが何故か気になる。その日はお酒を沢山飲みたい。

最近引っ越したのだけれど、その引っ越し先は5階で南と西に窓がついているから1日のほとんどを太陽と共に過ごすことができる。これも上の方の要素。最上位。その瞬間限りの色や表情の空を眺めながらベランダで佇む時間は、生きていてよかったのかも、と思える貴重な時間。その空を、シャッターを切って半永久なものにするときもあれば、記憶に残るかどうかもわからないままただ茫と見つめることもある。こんな生活、いつまで続くかなあ。

 

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