浮遊

意欲の湧いてこない日々が続いている。時計台の鐘が空間を打ち鳴らすような一定のサイクルで欲が出現してきては、一瞬の豊満を得て消えてゆく。その繰り返し。熱を帯びていない、客観的な生活。愚劣なマジョリティの流れに乗るなんてことは決してないが、心情は都会の人混みに押し流されて訳のわからない掃き溜めみたいな場所に向かってしまっているような感覚だ。言葉では上手く表しきれない。

ここに辿り着くまで20分。長い。Sailor Jerry のストレート。ローラーで巻いたドミンゴ

かつて地球に存在していた人や、今も存命している多くの人たちが口にするように、結局、群衆に乗っかってしまうのがもっともラクな生き方だと思う。日本という国においては。「他の人はもう全員海に飛び込みましたよ」と言われればそれに従って飛び込んでしまうような国民だ。こんな奴らと同じ方向を向いて歩いていれば、肩がぶつかり、それが発端となって一生着地点の掴めない対立が生まれることも自ずと減っていくだろう。冷めきったきつい目つきで一瞥されることもあるまい。奴らは、冷めきっているんだ。

こんな冷めきった奴らみたいに、考えることを放棄したくはない、と何度でも思う。くそみたいに遠回りになってもいいや。躁鬱の大波に飲まれてただただ耐えることしかできなくなってもいいや。考えることを放棄してしまうことが、一番恐ろしい。心臓は動いているけど、熱を失ってしまっている状態になることが、一番怖い。そんなもの、人生のカウントのうちには入らない。

こんなことが常日頃から頭の片隅に座り込んでいるのに、意欲の湧かない日々が繰り返される。最近聴いている The Jam はモッズスーツとリッケンバッカーの身なりで殴りかかってきて、Chet Baker は心の内の哀愁を最大振幅まで増幅させ、それを悦へと転換させた。ただ、Sex Pistols を初めて聴いた時の衝動には優に及ばない。最近読んだ、三島由紀夫の『孔雀』や『三熊野詣』は得も言われぬ美しさを秘めていた。ただ、ヘッセの『知と愛』を読み終えた時に湧いてきた、あの沸々とした神気のようなものは感じ得ない。熱気が枯渇してしまっているのだろうか? それとも、ただ単に、本物や新しい感性に出会えていないだけなのだろうか?

空洞のみが頭を支配する。これでは、いくら言葉や写真を取り入れてみたところで受け止めきれているか分かりやしない。まるで、底の見えない真っ暗な洞穴に石を投げ込んで遊んでいるみたいだ。自分という存在の本質や、そもそもこの世の存在の本質が空洞であるとしたら、こんなにまで満ち足りない気持ちに遭遇してしまっているのは何故だろうか? 目の前の真実を限りなく吸収し、自分の心と融合させるために、空洞があるんじゃなかったのか? それなのになぜ、空洞を埋める必要などひとつもないのになぜ、空洞を埋めたいという欲求を満たすことによってしか満足感を得られることができないのだろうか?

 まったく、矛盾している。どうしようもない。ラムを流し込んでやり過ごす。