無用の用

故郷でも疫病が蔓延してしまっていて、通ってた高校のすぐ近くの病院でも院内感染が起こったらしく、見えない敵は見えない角度から脆い人間の身体を蝕もうと企んでいる。ネットをたらたら眺めていると、高校の同級生の父親はこの疫病に葬られてしまったみたいで、なんだか只事じゃないことになっているな。けど引き籠って安牌を切ってばかりいるのは到底耐えられることじゃないから、海風を浴びに行ったりしながら、キノコ雲みたいに空中に漂っている不穏な空気に飲み込まれて黒い雨に打たれるのをどうにか回避している。こんな中、疫病に立ち向かおうとして張り切りすぎたのか、間抜けとしか捉えようのない言動を飛沫とともに撒き散らしている大人がちらほら散見されるが、人間ができることは唯ひとつ、待つことだけだと思う。猛威ってものは、理不尽なタイミングで場を掻き乱し、文明の飽和点を露見させては唐突に立ち去ってゆく。そういうものだ。台風や津波、山火事がそうであるように。ただ猛威が過ぎ去った後、焼け落ちて黒焦げになった燃え殻ばかりで視界を埋めてしまうのか、確実に訪れるはずであった理想とする生活が崩壊したことに腹をたてるのか、それとも惨禍から身を躱した綺麗な華の姿に意識を向けるか、というところで人間の本性が現れるんだろうな。さっさと見えない敵がひらりと姿を消すのを願うばかりだ。海外に行きてえんだ俺は。

海風を浴びに行ったと言ってみたけれどここ最近遠出をしたのはそれくらいで、他の時間は相変わらずギターをジャカジャカしてみたり、本を読んでみたり。久方ぶりに太宰を手にとってみた。『正義と微笑』。ページをゆったりと捲っていると主人公の学生時代の描写に突き当たり、それに影響されて自分が今までに積み上げて来た勉学のことを回想していた。

中学校までの勉強は、なんとなくペンを走らせたら点数取れちゃった、みたいな感じだった。それより崇高でも、卑劣でもなかった。何か特筆して学ぶ意欲があったり興味が沸々と湧いてきたりといった内発的動機に駆り立てられて取り組んでいた訳ではなく、単なる点取りゲーム、といった捉え方をしていたと今になって思う。中学校で良くも悪くも偉そうに教壇に登って教えていた先生には2,3人を除いて全く興味が湧かず、俺はほとんどの先生に対して、ほら点数とってやったぞ、といった感じの態度をとっていた。あまり表には出さず、内心。そんなエゴばっかりの大人に関心がなかった反面、友達とは腹がよじれるぐらい爆笑し合う毎日で、仲がいい班のメンツでは、牛乳にふりかけを混ぜて回し飲みして騒いだり、よくわかんない魚の名前で渾名をつけて呼び合ったりしていた。俺の渾名はネズミゴチ、だった。笑 中学の時には塾にも通っていて、勉学の大部分はそこで身につけていた。塾の先生たちはトークスキルがずば抜けていて、しょうもないことや堅苦しい歴史のことなど、ありとあらゆることを爆笑に変えて話してくれていた。あんなに面白い大人に出会うことはこの先滅多に無いと思われる。こんないい大人のおかげで塾ではずっと一番上のクラスに留まっていて、地域の公立で一番上の高校に進んだ。高校に進んだ途端、数ヶ月前まで天まで届かんとするぐらいの勢力だった勉学に対する意欲が急激に失われていった。きっかけはよく覚えていないけれど、学校でやらされているような勉強は意味があるのかとか、もっと内なる興味関心に則して勉強をしたいとか、そういうことを思うようになっていった。点取りゲームは終わってしまった。一応最低限、赤点をとるかとらないか程度の勉強はしてみるものの矢張りそこまで興味を持てず、しかし何かを学ぶ意欲はずっと離さないでいたので、この時から興味を感じた全ての本を浴びるように読み始めた。親戚の家から持ち帰ってきたカビ臭い全集で近代文学に傾倒したり、生物学の古典的名著を読み漁ったり、精神世界に足をつけてみたり。漢文の文法は大っ嫌いだったけど、『荘子』のストーリーは大好きだった。この中の、”樗木”に関するお話は人生に多大なる影響を与えたといってよい。このように本を読んで未知の世界を自分の中に取り入れる時間と、友達とおしゃべりしている時間だけが価値あるものだった。周りにはいろんな同級生がいて、まあその中のほんの一握りとしか仲良くなってない訳だけど、これは一生関係が続きそうだなと思う人もいれば、この人には俺が生涯かけて努力して勉強しても追いつくことはないんだろうなと思う人もいた。けどこんなに才能をもった、自分より上の上の世界の人間と沢山交わったことで、自分の中に根を張っていた高慢なエゴみたいなものの大部分が悉く抜け落ちたと思う。そんなエゴがこのタイミングで抜け落ちずに、二十歳を超えた今現在の生活にまで持ち込まれていた時のことを想像すると身震いせずにはいられない。大学を受験する直前までは専ら本ばかり読んだり遊びに出かけたりで、学校で学ぶことを半ば放棄していた俺の成績はそれほど時をかけずに底が見えてきて、それど同時に親からの信頼も失われていって、なんだこれまでの信頼はその程度のものだったのか、なんて思っていた。高校の先生に関しては強烈な記憶がひとつあって、始業式だか終業式だか忘れたが何かの集会の時に先生がひとりやふたりステージに登壇してスピーチを行う習慣があったんだけど、その時スピーチをした先生は開口一番、「最近皆課題の提出率がやけに良好だけど、本当にそれでいいのか?」といった旨のことを言い出した。続けて、「課題の提出なんてどうでもよくなるくらいに熱中する何かはないのか?」と。衝撃だった。耳に入ってきたと同時に心に刺さったのが感ぜられ、今でも記憶に残り続けている言葉のひとつとなっている。

こんな長ったらしい記憶を回想するきっかけとなったのは、『正義と微笑』の序盤に出てきた文章で、総括すると「無用の用」を意味するものだった。つまり、日常の役に立ちそうにない勉強が将来の人格を形成していくのだ、と。その文章を読んだ時、高校の頃の勉学に対する態度を少し後悔したけれど、あの頃読書に入り浸っていなければ今在る自分は存在しない訳で、あれはあれで自分がカルチベートされるのに不可欠だったんだろう。何かを逃さないと、何かを得ることはできない。

そして「無用の用」のような古来からの教えが水牛に乗って悠然と存在しているおかげで、余裕を失って有用のものだけをつい優先してしまうような時に、正気に舞い戻るためのきっかけを掴むことができる。”樗木”のような生き方に近づけたら、これ以上の幸せはない。