洗濯物を干しにベランダへ出ると久しぶりの突き抜けるような快晴で、カレーを食べに行きたくなった。いつからか、カレーと快晴は切っても切れぬ関係になっている。昼頃になってやっとベッドから抜け出して、道中で水を買って、真正面から突き刺さる太陽光と目眩のしそうな熱気に揉みくちゃにされながらカレーを食べる。そのあとバングラッシーをキメて24時間の眠りにつく。最も無意味で最も有意義な時間の使い方。

 

 

昨日新しく知ったはずのことが、一夜明けてみるとずっとずっと前から知っていたことのように感じられることが頻繁に起こる。感情なんかも一緒で、つい何時間か前まで新しく生じた感情に感動していたのに、眠りから覚めたらその新しい感情はかなり前にどこかで経験したもののように感じられる。夢も、ストーリーが終わって目が覚めた瞬間は新鮮さに満ち満ちているが、数時間後にふと夢を見たことを思い出すと、そのストーリーは遠い記憶であるかのように感じることがよくある。自分にとって新しい何かを経験した時に感じる新鮮味は幻なんだろうか。確かに新鮮味を保ったまま、初めて衝突した時の閃光を煌めかせたまま、存在し続けているものもある。ただ、確実に新鮮味を持っていたはずのものが、いっとき経つと遠い記憶のように変化してしまうこの現象は何なんだろう。前世の記憶がDNAにこびり付くように組み込まれているみたいだ。

 

 

明日ノベンバのDVDが届く、予定。吉田棒一の本も注文した。何週間後かに届く、予定。最近心の奥底にまで振動が浸透してくるような作品に出会えていない中、このふたつにはめちゃくちゃ期待している。

最近良い作品に出会えていないみたいな書き方をしてしまったけどこれはそんな一面的な意味ではなくて、なんというか、これは意味わかんねえとか面白くねえとか思っても、自分がその面白さに気づけていなかったり、面白さを逃したりしているだけだと思うんだよな。気づけていないなんてよくあることで、少し大人になってから再び作品に触れるとすごい衝撃が返ってきたり、すこし遠回りをしてから再度触れてみるとその価値が輝きだすことがあるってのが、その最たる例だ。また、俺は”ノーベル賞を欲しいと口に出している”という理由ひとつで村上春樹を軽蔑していて作品などひとつも読んだことがないわけだけど、これはまさに面白さを逃していることになる。ついでに『ティファニーで朝食を』も、彼が翻訳しているからなんとなく手に取らないでいるけど、これも同じようなことだ。けどやっぱり分かんないもんは分かんないし、それも運命ということで楽天的に受け流す。お気に入りのもので生活を埋め尽くしたい。新しいDVDと本が楽しみで楽しみで心が弾んでいる。早く明日へ!!

 

 

親戚のおばちゃんが亡くなってしまってから丁度一年が過ぎた。酔っ払った頭で、そのおばちゃんのことを想った。酔った頭の方が、より一層本心を伝えることができると思った。この疫病のせいでせっかくの一周忌のお祈りが延期になったらしい。俺もゴールデンウィークに合わせて帰省して一周忌に参加する積りだったのに、飛行機に乗ることさえもはばかられるこの状況、、、止む無く払い戻しの手続きを行った。親戚のおばちゃんは、自分で選択したのか、それとも梵みたいな何か崇高な威力に引っ張られたのか分からないけれど、ゴールデンウィークの真っ只中に突如息を引きとってしまって、皆大慌てだった。俺なんか、母親に飛行機の値段は気にしなくていいから帰れたら帰ってきなさいと言われたものの、そもそもゴールデンウィークに直行便のの残席が存在するわけもなく、しょうがなしに台湾を経由して故郷に帰った。台湾に寄って帰ってきたよ、と母親に告げると驚嘆と感心がごちゃまぜになったような表情が返ってきたけど、旅慣れた俺にとってはそのくらいのことは何でもないことだった。台湾なんてただの隣県だ。まあ、面倒臭いといえば面倒臭かったんだけど。けどこの面倒臭さの先には満開の菊が咲き誇るような光景が確かに存在していて、それは棺桶を覗き込んだ時に強く強く感じられた。すごく親切にしてもらった人が亡くなってしまうのはとても悲しいことだけど、人が後世に向かって静かにバトンを渡す瞬間はとても尊いものだと、このくらいの歳になって初めて本質的に気がつく。無言で、全てを理解してくれているような人だった。やっぱりね、人の魂というものはそう簡単に消滅してしまうものではない気がする。

 

 

野菜や鶏肉や魚が沢山詰まった重い買い物袋を提げながらアパートの階段を登っていると、途中のフロアで、ある部屋のドアが空いていて、そこの住人と恐らくそこを訪ねてきたであろう友人が立ち話をしていて、目が合うのも気まずいから下を向いてそそくさとはやくそこを通り過ぎようとするとそのどちらかが、「いやあやっとラブライブを観終わったんですよね〜〜〜」と言った声が耳に入ってきて、密かに声を殺して爆笑していた。おふざけ以外では友人対して敬語でなど話したことがなく、更には仲良くなった年上の人に対しても敬語を吹っ飛ばしてしまうことがあってなぜだかそれをすんなりと受け入れられてしまうことがほとんどの俺は、きっとこの先いくら人格が変わってしまうほどの体験を経たとしても、如何なる職業で飯を食っているとしても、友人に対して敬語で話す感覚というものは絶対に理解することができないであろう。一瞬だけ異世界に飛んで返ってきたような感覚が面白くて笑っちゃった。せっかく仲良くなった貴重な人間と敬語で話すなんて、互いに理解を深めていって距離をぐっと縮めることを投げ出しているとしかどうしても捉えることができない。これはもう性格だからどうしようもない。けど俺がこう思っていることを彼らが知ると、「いやあ私たちの世界なんてあなた方には到底理解できないでしょうね」なんて言われるんだろうな。彼らは自分らと相反するポイントを能動的に詮索しては周りの人間に"部外者"のラベルを貼り付け、自分らを狭い狭いコミュニティへと更に追い込んでいる気がする。だから魔法使いにまで進化してしまうんだよ、と思う。いや、他人だから別にどうでもいいんだけどね。