未完成

雨季。コルカタ

長いトランジットを乗り越えてたどり着いた空港にある唯一のATMの画面に映し出された"out of service"の文字。手抜き工事がもたらしたスコール後の洪水。いたるところに吐き出された赤い唾液。地面に這いつくばって金属の小銭入れをカンカンと打ち鳴らす明らかに栄養失調の乞食。誰も何も気にしない。下手に、安く身を飾り付ける。子供はガンジャと叫ぶ。貧しい犬は尻尾を追いかけ回す。

矢継ぎ早に飛び込んでくる光景の全てが狂っていて、ふざけている。

川辺では、ただの熱を持たない物質となった遺体が次々と運び込まれ、燃やされる。遺体が灰になる光景を間近で見据える。煙を吸い込んでしまった。吐きそう。熱波が遠慮なしに押し寄せる。皮膚が溶けそう。完璧を求めない世界で生きるのはとても羨ましいけれど、その先に、非の打ち所が無い完成形が人生の到達点として存在するのも羨ましい、と思った。死んだ彼彼女らは、竹で組まれた担架から頭がこぼれ落ちても、上から無造作に薪を放り投げられても、クリシュナと共にあった。死という儀式の完成形を見た気がした。クスリとかいう姑息な手を使って命を切るのではなく、川に身を沈めてゆっくりと自然の一部となりたい。焦点の定まらない虚ろな目で大河や人間を見つめるサドゥーは、何を思っているのだろう。写真で見てほんの少しだけ憧れの気持ちを抱いていたサドゥーだけど、実際に目の当たりにすると、一般社会の歯車に組み込まれることを全力で拒んだ姿の行く末としか思えなかった。結局皆輪廻にしがみついている。乞食だって、作られた悲しみの表情を浮かべて金をせがむだけで、何も生み出そうとしない。けど、労働で擦り切れてしまうことに我慢ならない気持ち、分かる。そんな生活、いつか破綻するもんな。理解し得ない人間より、理解し合える人間と、必ず終わりの来る都会より、永遠に語り続ける自然と過ごした方がいい。そんな直感だけを手繰り寄せて完成形と一体になろうとする彼らはすごい。俺にはそんな勇気はない。サドゥーなんていう選択肢があるなんて、初めて身を以て知った。知った今でさえも、お金や食べ物、身体の心配をしてしまう。サドゥーとして生きれば、欲なんかよりももっと気高い幸せを手に入れられるだろうか。サドゥーとして生きれば、神と溶け合うことができるだろうか。しかし彼らは緑の煙を吸い込まなければ神と対話することができない。他の物の助けを借りなければ、心へ沈んでゆくことができない。こんな姿は紛い物だって、みんな気がついている。どこへ行ったって、いくら何を見たって、どれが自分にふさわしいかなんてわからない。またいつものように頭を空っぽにして、重い心臓を引きずりながら、迷い、歩いていると、ガートでは夕方の儀式に向けてムードと緊張が高まっていて、空気の色や重みがそこだけ異様なのを見た。儀式を眺めてみようと思って空いている席を探していると、知らないおじさんが無言で手招きしてくれたり、見晴らしの良い席が空くと、お前はここに座れ、とボディランゲージで言ってくれたりして、なんだか泣きそうになった。きっと何かを考えすぎて心が弱っていた。石の階段に腰を下ろして、宗教の壁なんかいとも簡単にすり抜けるほど偉大で神妙な祈りが脳を揺らし、それに共鳴して心臓が揺れるのを感じながら、こんなふざけた国で、大した不安やふわついた感情を伴わずに、5分前に人を殺してきました、みたいな目をした浮浪者を眺めてみたり、裏では犯罪がうごめいていそうな夜の街に繰り出してみたりできるようになった自分の姿がフラッシュバックしてきて、やっと少しだけ強くなったのかな、と思った。

diamond

外界との境界線は消え去った。

空気となって大気中を飛び回り

水となってガンジス川を流れた。

自然と一体化し、完璧なまでに調和のとれた世界にいた。

甲高いヤモリの声が部屋に響き渡れば、その鳴き声となり、

嘲笑うかのような鳥の鳴き声が半崩壊のレンガの隙間を駆け抜ければ、その鳴き声となり、

khruangbin の波の音が囁けば、右脳は mark spier と化した。

この瞬間、何者かであり、かつ何者でもなかった。

空洞であったが、統合でもあった。

ある場所にいたが、何処にもいなかった。

心の中の空洞は、自然を受け入れるため、あらゆる波の一部となるために存在している。

空洞を見て絶望するな。

空洞を見て傷心するな。

酒で無理に空洞を満たそうとするな。

自分は自然の一部だ。

寛大で広大な空洞で、自然の、鳥の、川の声を受け入れ

それらが牙を剥いても、宇宙へ笑いかけても、あるがままに任せよ。

自分はひとつだ。他の何者とも被ってなんかいやしない。

今まで宇宙上に存在しなかった独自のリズムで呼吸し、脈動することができる。

そして自分はただの空洞で、ただの波でしかない。

自然がそうであるように。

瞼の裏側

幾度も経験を積み重ねるごとに、驚きや感嘆の表情は表に現れないようになり、水晶はどす黒い小石へと変化し、地平線に沈みゆく太陽を映し出す鏡のような瞳には次第に影が差してくる。

いつの間にか取り払われていた幼心をもう一度奪い返したい、とは誰しも思うことだ。そのためには、今の命をたたんで再び生まれてこなくては。だだ、転生して再び誕生した幼い人間は、前世であれほど渇望していた幼心をひけらかしては無残なまでにすり減らし、青春を迎えて初めて、手元に残った目も当てられないほど傷ついてしまった幼心を客観視する。

この世ではもう幼少期を取り戻せないことを悟った人間は、ただ唯一価値を見出していた音楽さえも壁に投げつけて叩き壊し、冷酷な銃口を顳顬にあてがう。

身体を得ては撃たれて失って、身体を得ては刺青を入れて失って、身体を得てはズタボロに傷つけて失って、身体を得ては黒くなって失って、身体を得てはクスリ漬けになって失って、身体を得て次はどうやって失う??

繰り返しにはうんざりしている。

無の世界へと跳び立つんだ!

できれば、方向感覚さえ無い空間へ。

頭上を颯爽と横切る信号機や、淡い街灯の光が鬱陶しくてしょうがない。前の車のナンバーがゾロ目であることさえも苛立ちを引き起こす。光を当てないでくれ。せめて真夜中ぐらいは、光の当たらない、自分以外の何者も干渉できない空間で自由を弄びたい。

内を眺めた時のみに現れるその空間では、外界に少したりとも興味を示さずに黙りこくっていた細胞たちが、永遠に流れゆく幾何学模様の波に乗って踊りだす。

憂鬱で閉じていた目が瞠く。重力に屈していた身体が突然跳ね上がる。

涅槃へと向かうんだ!

車と音楽

台風が近い中、飛行機に乗って大好きなバンド、尊敬する人を観に行った。

まだ梅雨前だというのに、すっかり梅雨を通り越したような空に覆われていた。

会場から数百メートル離れた駐車場にレンタカーを停め、豪雨のように降りしきる太陽光をかいくぐりながら、騒々しく賑やかな公園や、梔子の花壇の横を通り抜けて会場へと向かった。

この青い空はどこまで続いているのだろう?

灰色の空との境界線はどこにあるのだろう?

なんて思いながらビールを手にはしゃぐ友達を横目にずっと遠くの方を眺めていると、2機の戦闘機が地上の小人をからかうように轟音を引き連れて接近し、か弱い笑い声や、洗練された甘美な薫りを、瞬く間に吹き飛ばした。

失われたそれらを拾い集めて昼下がりの平和を取り戻そうとしたが、潮風に乗ってさらに飛ばされてしまったか、足許の真っ白な砂に埋もれてしまったかで、そのかけらすらも取り戻すことができなかった。

ただ思い返してみると、平穏をぐらつかせた轟音の最中でも、会場から漏れるバズドラの音と野太い咆哮だけは途絶えていなかった。

音楽は何物にも屈しない。

捨て身の存在だから。

誰だって、音楽から捨て身の体当たりを食らった後は、何も聴いてなんかいられない状況を経験したことがあるだろう。

良いものを経験したからこそ、無の世界へと向かいたくなること。

今回も、それに違いなかった。

それなのに帰りの車中、友達がレンタカーのスピーカーからチープな音量で音源を流しては歌詞を口ずさんでいる姿を見て、

「こいつ刺し殺してえ」

という言葉が脳を一瞬掠めた思い出。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

他人と深い関係を築こうとする時、何か共通の趣味嗜好を持っているということは絶対条件であり、それが音楽や小説の類であれば尚更関係が強固なものとなることが多い。

現に、俺の狭い狭いマイノリティな音楽的趣味に共感してくれたことがきっかけとなって関係を築いたことが幾度となくある。

それに、これはいつか一緒に寝ることになるな、と出会った瞬間感じられるほどのオーラを全身から醸し出している人は、そんな共通の何か、お互い目を見開いて語ってしまうほどの何かを持っていることが多くある。 

また、他人の車に初めて乗った時なんてのは、まず流れてくる音楽に耳を傾け、その人が味方かそれ以外かを判断してしまう。

この間も初対面の人の車に乗せてもらい、近場へ買い物へ行った。

前日のアルコールが未だ食道にその足跡を微かに残していたのに、今にもなだれが起きてしまいそうな空模様があいまって、たいそう気分が悪かった。

こんな時にKORNでも流れてくれたら、Jonathanの憂鬱な叫び声が吐き気を大気中へ葬り去ってくれるのに...

RAGEでもいい。ステージ上で星条旗に火をつけていたように、吐き気を燃やして消し去ってほしい...

しかし車中に流れたのは、EXILEだった。

殺してやろうかと思った。

あの醜い顔面は、今でも鮮明に脳裏に描くことができる。

刺殺がいい。

RISING SUNを我が物顔で歌い散らかすそいつと同じ空間にいると思うと、胃がムカついてきて吐き気が食道を遡り、悪態と憎悪に満ち満ちた車の窓を開け放ったと同時に、紫の胃液をアスファルトに撒き散らした。

nostalgia!!!!!

今にも押し潰されてしまいそうなお店に足繁く通うのが、好きだ。

ジャンルは問わない。

CD屋だって、飲み屋だって、ラーメン屋だって。本屋だってそうだ。

明日、道路拡張の通達が来てすぐにでも立ち退きを迫られるかもしれない。

カネが尽きて店主が飛んでしまうかもしれない。

格好の良い戦闘機が轟音をまくし立てながら落ちてくるかも。

といった使い捨ての妄想を次から次へと生み出しながら、

輪郭のぼやけた紅い雲がギラギラと輝く黄昏時、いつもの道で、いつもの古本屋へと向かった。

不自然とまで感じられるほどに雲が燃え上がっていたのは、香港の激動のせいだ、と思った。

たった1500kmほど先では、民主主義を奪取するため、同年代の人間が非暴力を掲げて仇敵を打ちのめそうとしたり、催涙弾の処理をしたりしていることを想像すると、平素から腐りきった生ぬるい生活を営んでいる自分自身を恥じずにはいられない。前の選挙には、行かなかった。ポスターに映る疑惑の作り笑いを見せられても、この人に託してみるか、といった信頼感や期待感は微塵たりとも生じた試しはない。どれだけ公約が真っ当なものであってもだ。労力を割いてまで、人に何かを託すのは非常に難しい。主義とはなんだろう? 民主主義とは? 民主主義以外の世の中で渡世したこともないから比較のしようがない。しかし民主主義が世に蔓延している以上、それと関わりを持たずにいることも難しい。

思考の幅を広げなきゃな、と心に誓いながら、チェ・ゲバラのポスターが掲げられた古本屋の扉を物憂げに押し開けた。

体を横に傾け、気持ちお腹を凹ませないと通れないほどの書棚の隙間に、夢中で1時間くらい身を置いていた。

時が早く感じられるような体験を数多くすることができれば、寿命って縮まるんだろうか、といつも思う。

これが本当であれば、名著に出会えばであるほど、尊敬する人を観て涙を流せば流すほど、錯綜の世界へ入り込んで行けば行くほど、このカラダと共にある時間を、すごい早さですり減らせるのに。

盲目的に生を繋ごうとする老人とすれ違う度に、このような姿は自分の人生ではない、と直感的に感じる。

長生きなんて胸糞悪い。40年もあればそれでいいだろ。それでもありすぎるぐらいだ。

ただ、崇高な作品は、自分が年を重ねる毎に、以前とはまったくもって異なる新たな表情を露見させてくれることを理解したことにより、衰弱しきった皺だらけの手のひらで、20代の今を形作った書物のページを捲ってみたい、と妄想しているという事実もある。

前途はどちらに転ぶのか。

自分の内側、自分が見つけきれていない自分は、知っているのだろうか。

 再び外側に意識を戻すと、『狂った季節』と記された背表紙がふと目に入り、老人の手を引くように、そっと表題の羅列の中から引き抜いた。

筆者は広津和郎、とあった。またひとつ、知らない世界に触れられて、歓喜一色。

裏表紙を見る。鉛筆の荒い筆跡がこう言っていた。2500円也。

初版だった。

つい先日新著に4000円程注ぎ込んだ学生には少し高価に思えて、そっと元の場所に戻しておいた。

芸術に対して惜しげも無く金を注ぎ込むことができないのはとてももどかしい。

金があれば、日の目を浴びずに、古きよき香りをカバーの中にしまい込んでいるその本を救い出すことができるのに。

いつもレジ横に腰を下ろしている女性の店員は、どれだけの日陰者達を救済してきたであろうか。

結局、褐色のカビがこびりついたトルストイの作品だけを片手に、狭苦しい楽園から、暗転した世界へ。

視界のよく通らない暗闇と、目に染み込んでくるような湿気に跳ね返された意識は、行き場所を失い、内へ内へと潜り込む。 

 

内向的薄暮

薄く汗をかいた肌にまとわりつく湿気が不快で目が開く。

陽はまだ上る気配はない。

隣の友達の純白でしなやかな腕は、重力で俺の頚動脈を薄弱に圧迫する。

手荒くそれを払いのけ、再び瞼を閉じる。

目覚めはいつでも太陽とともにある方がいいに決まっている。

いつでも2度寝をしていたいのは、記憶から抹消されることのない夢に出会えることが幾度もあるからだ。

 

今日の俺は、何処かの国の大聖堂でオーケストラを目の当たりにしていた。

そこにたどり着いた経緯や、奏でられていた曲や、周りに知り合いがいたかどうかはちっとも覚えていない。

どうせ旅先で、泥酔や色事に飽き飽きしてしまって、知らない人たちの流れに乗ってふらっと入り込んだのだろう。

演奏の大半の記憶は皆無だが、

最後に指揮者が握り拳を作って全ての演奏が終了した。

一瞬、清閑。

後、大歓声、スタンディングオーベーション。地鳴りで大聖堂が震えわたる。

揚々たる表情で袖にはける芸術家に惜しげのない賞賛を与え続ける上流気取りの大観衆に対し、俺はひとり不貞腐れた姿勢で座席に深く座り込んだまま動かない。

地獄を見ているかのような疎い目で、不穏な色に染められた空気を見つめていた。

 

2度目の目覚め。

カーテンはまだ閉ざされたままだが、偉大な太陽はその存在を隠すことはできない。

既にベッドから抜け出し、座布団に腰を下ろしている友達に言葉を投げかける。

「ね、カーテンぐらい開けなよ。」

「そうよね、起こしちゃ悪いと思ってさ。それよりさ、今Twitter見たらJがパクられたんだって。」

「ん、どうして?」

マリファナだってさ。わたし、この前ライブ行ったばっかなのになあ。社会はさ、なんでこうも天才ばかりを摘み取っていくんだろうね。」

俺は、心の中に微塵の驚きも発生しないままその真実を受け止めた。

机の上に清楚に佇んでいるもの、唐突に閃光のように視界に飛び込んでくるもの、ブラックホールを超えた宇宙に漂っているもの。

存在すれば全て真実だ。

Jが雲を介さない月光のように攻撃的で色艶のある瞳で、ほんの少し遠い世界へ行っていることなんで、誰もが知っていることじゃないか。

友達が最後に口にした言葉には俺も同意したが、相槌を打つのはなんだか白痴でつまらない気がして、何も発さずに黙っておいた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

去り際の太陽を遠くに眺めながら、ベランダでサイケに揺れる。

寿命を前借りして、ほんの少し遠い世界へと旅をする。

人肌のように暖かい橙色の光は、万物の輪郭を浮き彫りにする。

その浮き彫りになった輪郭が、吐き気を催させる。

輪郭がはっきりしすぎていると、吐き気を催す。

痛飲した時のみにまみえる世界が常しえのものとなれば、こんなに生き急ごうとしなくてもよくなるかもしれない。

眼に入ってくる全てのものや、こころに働きかけてくる全ての感情が、自分からの距離を掴むことさえ困難なほどぼやけていたらいいのに。

輪郭が過剰にはっきりとしているから、逃避行に走り、また一歩後退。

手のひらで触れられるものは何もなく、愛や信頼といった感情のみの世界があったら、お気に入りの椅子にしがみつく子供のようにそこに居座っていようとするだろうか。

今生きている世界には、そんな場所は存在するだろうか。

カラダから解脱してしまいたい、との思いが頭を巣食って占領してしまうことが幾度となくあるが、なんとか思いとどまっているのは、未だ今いる世界を知り尽くしていないからで、何処かで苦の無い生活にばったりと出会えるかも、といった一抹の希望を地に引きずりながら、すぐに沈んでしまう自分を騙し騙し命を繋いでいる。

 夕方は寿命がはやく擦り切れているような気がする。

苟且

美しすぎて涙がこぼれそうなほどの青空と乾いた空気を打ち鳴らす蝉の声を感じ、あゝ夏到来。

ちょっぴりと塩分の混じった風に吹き付けられながら運転する。胃の中と脳みその中がぐるぐるごちゃごちゃと回転している。これはギリギリ飲酒運転かも...

晴れ渡ったこんなにも素晴らしい祝日なのに車は遠慮なく列に割り込む。

me first !!! me first !!! me first !!! me first !!! me first !!!

みんな急いでいる。

きっとこんな人たちがネット上にあるくだらない音楽レビューの掃き溜めを作っているんだ。

けど急がないと周りの流れからは置いてけぼりをくらう。

急げだの早く決めろだのとせかす大人が大嫌いだった。

そんな大人にだけは殺されたくない。

実家のリビングにいるだけで心がどうしても落ち着かなかった10代後半の俺は、歩きで20分離れた親戚の家に頻繁に遊びに行っていた。

自転車に乗らずに徒歩でいつも来る俺に向かって、そんくらいの時間感覚で生きるといいね、と言ってくれたのを覚えている。

迷った時にはこんな大人の言葉を信用したい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

初秋、カラスの鳴き声が響き渡る。川辺には夕日に染まったススキが。

黒とオレンジの対比が、普段は嫌われ者のカラスを一瞬だけ美しく見せる。

門限を守らなきゃ、という自分ともっとふわふわと遊んでいたい、という自分との戦い。

けれど友達の家のキッチンから漂ってくる夕飯の香りは何かしっくりとこなくて、わざとゆっくりと、わざと幾度もリュックの中身を確認したりして、帰途につく。

心がざわつく少年時代の思い出。

少しすると綺麗さっぱり消えてしまうからこそ、尊いと思えることができる。

今目の前にあるガラスの灰皿は、どんなに細かい細工を施してあろうとも、美しいとは思わない。

ただの腐った憎悪や悩みや落ち気の溜まり場だ。なのにどうして、そんなに汚れるためのみにあるものをどうして飾りつけようとするのだろう。

ヨーロッパの石畳や石像は、どこか陰気臭くて影がつきまとっているような気がして、あまりずっと眺めていようとは思わない。

けど

昨日、高アルコールのビール缶を開けながら海辺で見た花火の、生花のような美しさ。

偶然が作用して形成された雲の形の美しさ。

いつもの道に咲くパンジーの死に際の美しさ。

こんな、ほんの数秒であろうと、数ヶ月であろうと、短い時間が過ぎれば失われてしまうものをしゃがみこんでじっと眺めている瞬間がとても尊い

ベッドで他人のカラダを美しい、と思うのもこれと似たようなものかもしれない。

脳が幸せなのはほんの一瞬だ。

その一瞬の美しさを求めて、生活に励む。

K

また沈み込んでいる。

波形の最底辺にいる。

近頃はかなり安定していてきたと思っていた。

上がり過ぎれば、その分代償がでかい。

鼓動が疼きだし、何時間も何時間も底から這い上がれない。

無意識に太宰の方向へと手が伸び、、嗚咽。

吉田棒一氏のHORSESを読んだ。

9割はマジでくだらねーおふざけや性欲で溢れていたけど、

それ以外の1割ではガツンと決めにくる。

性描写に浮かぶ真理。

美しい文章。額縁に入れて飾りたくなるくらいに美しい文章。

紅茶を待つ数分間、額縁の中の文を愉しむ。

愉しむが、強すぎる太陽光が反射して読みづらい。

部屋には俺独り。と、残ったいつもの化粧の匂い。

美とbeautifulはイコールではない、と今日どこかで読んだ。

本を読み終わると、それらをふるいにかける。

一生付き合うものと、そうでないものに。

一度だけで理解できてしまう作品や言葉は愚物だと思う。

どんなに効率的でなくても、それらについて想う時間は惜しまないし、多分無駄じゃない。

HORSESはもう3回読んだ。

ダウン

昨日は観光地の奥深くで、久しぶりの人や初めましての人とたくさん楽しいお話ができてとってもとっても楽しかったな。

久しぶりにディープな音楽の話をしたり、公園で猫を撫でたりして、鳥が鳴き始めるまで喋り続けた。

やっぱり知らない世界に導いてくれる人が必要で、そして腐り切って落ち切ったこの気持ちを全部吐き出しても構わない人が必要だなーと思った。

会話の内容をほとんど覚えてないの本当にもったいないな...

覚えているものも、もう何倍にも薄まってしまっている...

勝手にダウンロードされてたアルバム4枚聞いてみるかー。

無題

 ゴールデンウィークの真っ只中、母親から突然親戚の訃報を受け取り、故郷へと大急ぎで飛んで帰った。全くもって想定などしていなかった事実に対する焦りと悲哀とが、幾何学模様のように頭の中を規則的に駆けずり回っていた。受け取った文面をじっと見つめ、涙がこぼれそうだったが、それには嫌気がさして冷たいコンクリートの天井をボーッと眺めた。真摯に、客観的に、物事について考えを巡らせ、個の思想を核に持ちながら目の前の事象に相対することができるようになってから、身の回りに死が転がり込んで来たのはこれが最初のことであった。いや、けれども真実を吐露すると、彼女の死が少々つま先を伸ばしながら手を伸ばせば届く距離まで接近してきていることは、どこかで想定していた、と思う。生ける者の死に際の情景を妄想することが稀にある。自分の死に際は、ある時はクヌルプがそうであったように、孤独と戦い切った末、空の青が反射しそうなほど真っ白な雪に埋もれて息絶えていて、またある時は角度の至極緩やかで柔らかな日差しの差し込む病室で、家族のような者たちに最期の優しい言葉をかけていることだってある。はじめに、死を想定していなかたったなどと非事実を述べてしまったのは、社会や上っ面の人付き合いを生き抜かんとする俺が、くそったれで微塵の価値もない妄想の頭を力尽くで上から押さえつけていたに過ぎない。なに、気にすることなどない。普段は監禁されている彼らは、看守の目が甘くなるごく僅かな瞬間を決して見逃さず、いたずらっ気のある笑顔を浮かべながら姿を表し、短い言葉の断片やなんとも形容し難い形をしたイメージをひょいとこちらに向かって投げ捨てては、元の場所へそそくさと帰ってゆく。

 帰郷の話を続けよう。今年に入って最も急ぎながらことを運んだにも関わらず、たいへん稀なことに何も忘れ物をしないまま搭乗することができた。2018年度は国外線に乗ること計3回、そのうち2回は大きな忘れ物をした。充電器を置いてきてしまったのを悟ったときの絶望感ときたら、ポケットから札束を抜かれた時のそれに等しい。成人式での帰省から約5ヶ月後であった。正月の空に同化するかの如くグレーの布ですっぽりと覆われていた空港は、利便性とグローバル化とを惜しげも無く前面に押し出した新しい姿へと豹変していた。その割には異国人が少ないな、などと頭の中で書き連ねながら茫と地下鉄の改札を通り抜けた。かっちりと身を固めた彼彼女らは、感嘆たる身のこなしで我先にと人混みをかいくぐっていたが、その片手に握りしめたコーヒーの味を楽しんだことがはたしてあるのだろうか。上物のコーヒーがドーピングになっていやしまいか。これは他人に対する外面的な心配事ではない。急いでいる俺に対する内的で警告的な問いだ。いち早く実家の畳の香りに包まれながら柴犬の腹を撫でてあげたい欲求を制し、友達に会うべく、人の五月蝿い繁華街に降り立った。ごめんよ、人間社会に身を置いて残り時間を擦り減らしてゆく間は、友人関係を優先せずにはいられないのだよ。とっても面倒で厄介で煩わしいけどね、続けていると偶にラッキーなことが舞い降りてくるんだ。けど、犬社会でも同じようなことかもしれないね。次の夏には11歳を迎えようかという君が、長い間特段親密でもなかったご近所さんと近頃は共に大はしゃぎしていると聞いたり、僕ら人間の隙をついては脱走して隣の田んぼに飛び込む姿を見たりすると、もし俺が老人になったとしたら、君のような生き方をしたいといつも思うんだ。

 東向きの窓から突き刺さる強烈な朝日が閉じた瞼越しに降り注ぎ、休日にしては早めの目覚めを迎えた。微かな寝息の振動を感じられるほど近くで寝ていたはずの柴犬は、もうとっくに活動を始めていた。帰省が決まった瞬間、一緒に散歩に出かけようという決断がまず第一に浮き上がってきたので、それを実現すべく勁烈な太陽光を眼球に叩き込み、両親を起こさぬよう地面が軋む音を殺しながら階段を下った。彼の散歩は長い。調子が良ければ1時間くらいだろうか。彼は人を選ぶ。父の時は距離は短め。母と俺の時は長め。さらには俺限定で猛烈にダッシュする。俺は長い散歩ダッシュの相手に選抜されてとても誇らしい。散歩から戻ると朝食を掻き込み、毛嫌いしている革靴に足をはめ込み、斎場へと向かった。遠慮がちに、少しの畏れと表現しようのないほどの尊敬を持って棺の中を覗き込んだ。俺に髪を結べだのと小言を言ってきた親戚のおばさま方は、綺麗な顔をしている、などとヒソヒソ話し合っていたが、俺は、彼女はどんな空間で臨終を迎えたのだろうか、という妄想をまたもや繰り返していた。安楽死のように穏やかで、肯定的であってくれていたらな、と要らぬ私感の混じった妄想をしたが、後に聞くと、どうやらその対極のようであった。

 式の直前、左隣に座っていた滅多に会うことのない親戚のおじさんと旅の話をした。そのおじさんは40代で、今は関東、何年か前はデトロイトで仕事をしていたことぐらいしか知らないが、幼い頃から、会う度に目の玉が見えなくなるほどニコニコして優しくしてくれている。彼は学生であった90年代中頃に、始めてバックパックでタイに降り立った思い出や、インドを鉄道で横断したり、その途中ダライ・ラマを見に行けると謳った偽のツアーに騙されて所持金の大半をスられたエピソードを、経験豊富な深い大人の声でして聞かせてくれた。話の最中、96年に撮られた Steve Mccurry のコルカタでの写真が鮮明に、もしやすると匂いや蒸し暑ささえも伴いながら、脳裏に浮かび上がってきた。その写真の空間に足を踏み入れようとしたその刹那、式開始の旨が全体に告げられ、その試みは自然と遮断された。亡くなった彼女には本当に良くしてもらった。俺が誕生した時は、1時間に1本しかバスが来ないほどの田舎から、バスや地下鉄を乗り継いで遥々姿を拝みに来てくれたらしい。他にも語り尽くせないほどの、惜しげもない献身をしてくれた。寝落ちしそうなほど退屈で抑揚の効かない式の最中は、彼女が曲がった腰でよたよたと歩いてきて空いた右隣のパイプ椅子にそっと腰を下ろし、こちらに目配せして、全て分かっているよ、と言うかの如く少し遠くを眺めて微笑む情景を妄想しては、独り勝手に泣きかけていた。また、全てが前に動いた。