30042021

過疎

無機質

昭和の抜け殻

久しぶりに訪れた北九州では、そんな言葉が頭の中を飛び交った。

夜、酒が飲みたくなってフラフラと商店街を歩いてみても、シャッターを上げている店は片手で収まる程度。アルコールを出さない店は見当たらず、ろくに飯も食えない。てきとーに入った居酒屋の大将は、近くにあったほっともっとや資さんうどんさえも潰れたって寂しそうに言った。ここは、面積あたりの高齢者人口の割合が飛び抜けて高いとも。そもそも、一番の光源がパチ屋の街はどう考えてもオワっている。歩けど歩けど、体温を感じない。あまりのがらんどうぶりを直視したくなくて目を覆っても、既に脳内に侵入している冷え切った街の光景は、脊髄を通り抜けて身体を芯から冷やしていく。

あーあ、せっかく冬が過ぎて末端冷え性が治ったと思ったのに。

というか、うどん屋のくせになぜかおはぎがバカうまい資さんうどんが、ありがたいありがたい24時間営業の資さんうどんが、そもそも北九州発祥の資さんうどんが、北九州の地域から撤退するなんてマジかよってことをずっと考えていた。というかそれぐらいしか考えることがなくて、それぐらいしか考えられなかった。

駅前には、俺の人生史上一番デカくて長いイオンモールが聳え立っていて、なんだかそれが街全体に蔓延するウンザリ感を増幅させてしまっている気がしてならなかった。無様だよな、イオンモール。イオンのスーパーじゃなくて、イオンのモール。モール。mall。無様。デカくなればなるほど、かっぺ度合いが増していく。かっぺ度合いの指数関数的増加。すごいよな、イオンのモールのサイズを見ただけで地域のかっぺ度合いを一瞬で悟ってしまうことができるんだもんな。研究者とか政府はわざわざ人口の統計をとって過疎具合を評価するんじゃなくて、イオンのモールの総売り場面積か何かで評価したらいいと思った。

 

なんでいきなり北九州に行ったかというとそれは博物館に用事があったからで、その用事の最終日にはよくしてもらった職員の方が「視察ってことにしときますから」と耳打ちしてきて、タダで中の展示を見ることができた(外面作り笑顔、内心お祭り)。博物館は小学校低学年ぐらいの時、つまり15,16年前に1回だけ行ったことがあって、微かに残るノミサイズの記憶を引っ張り出してきて今現在の展示と照らし合わせていたけど、なかなか合致しなかった。ノミサイズの記憶には、ティラノサウルスの頭骸骨がショーケースに展示されていた光景が確かに残っていたけど、今はそんなものは見当たらず、無数の恐竜の全身骨格が屹立していた。後で職員の方に聞くと博物館は10年前にリニューアルされたらしく、昔の記憶とは全く別の光景を見ていたみたいだった。恐竜に関して言うと、昔みたいなショーケース越しの展示じゃなくて、低い柵はあるけどブツを全て生で見ることができるように展示されていてめちゃくちゃ良かった。日曜でガキがいっぱいいて、手の届く骨は片っ端から触りまくってたけど、、笑。ガキといえば、俺が蝶の標本の展示を見ていたら5才ぐらいの男の子が突然後ろから喋りかけてきたから、一緒に好きな動物の話や、俺は今じゃもう全くついていけてない戦隊モノの話を15分ぐらいしていた。まだ話は支離滅裂だったんだけど可愛かったから、親が来るまでずっと話していた。その子とは喋った瞬間に、纏っている空気の波形がすごく近いような気がしておもしろかった。あるよね、こういう事。ほんのたまーーにだけど。これをオードリーの若林は音叉、リリイシュシュのすべてではエーテルって表現してるよな。

ガキの話はもうひとつあって、それは博物館にある哺乳類の展示スペースでのこと。スペースの一角にはアザラシ、アシカ、トドといった海獣の剥製が展示してあって、俺はスペースのパネルに書いてある、アザラシとアシカの耳の違いに関する文章ををぼけーっと読んでいた。そしたらスタイルいい感じのお母さんに手を引かれて小さい男の子がやってきて、すごいねー、かわいいねー、とか言いながらアザラシ、アシカの順で展示を通り過ぎていった。俺は、やっぱ子どもかわいいよな、とか思いながら親子を横目でチラ見していると、その親子は海獣スペースの最後に君臨する、まるまると肥えたトドの剥製に差し掛かった。すると、その男の子は何を思ったのか真面目な顔で突然、

「なんかママみたい」

とか言い出すから俺はもう

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

ってなって噴き出そうにも噴き出せず、恐竜が目玉の博物館の、特に盛り上がってもいない哺乳類スペースの片隅でひとり必死になって笑いを噛み殺していた。

おもしろいじゃん北九州。

XX082020 sunny blue

すっからかんの冷蔵庫を埋めるために昼過ぎに買い物に行って、帰ってきてから昼ご飯を食べ終えると夕方まで眠ってしまっていた。台風が過ぎ去ったばかりで、窓を目一杯押し開けると、数日ぶりに柔らかい太陽と色白な雲の薫りが鼻腔に充満するのを感じた。昨日と打って変わって何も感情を露にしない空を眺めながら、何も起こさなかった1日を茫と俯瞰した。空中キャンプをランダムで流す。都会に繰り出して酒瓶に殴られたい気分だ。

 

ネットで知り合った女性とLINEを交換して会話を続ける。いつもだったらこの辺りで適当にドライブでもして酒を買って帰って一緒に眠っているところだけど、俺たちが住む世界のルールは悪い人たちによって作り変えられてしまっていて、俺らはまだ互いの体温を知らない。

こうしてLINEでの会話が長引き過ぎているせいで、俺は彼女のことを知り過ぎている。俺が知らない部分の彼女が通知音とともに磨り減っていっているのが手に取るように分かる。知るという行為によって侵食された部分が全身に転移した時、その美しい魅力は唐突に崩れ去り、俺は彼女から目を逸らし始めるのが分かっている。彼女の内面や身体の隅々まで知り尽くしてしまった時、俺は彼女に失望してその存在を突き放してしまう予感がある。

何度同じことを繰り返せばいいんだ? こんな堂々巡り、ちっとも美しくない。汚染された都会の星空の方がよっぽど美しい。全部、暗闇が覆ってしまえばいい。

 

 

夜になる。ベランダからグラスを落とす妄想をする。

帰省をした。今回はゆっくりと1週間。

予想はしていたけどとんでもなく乾燥していて、消費する化粧水の量はいつもの2倍、使う頻度も2倍って感じで、お財布に優しい無印の化粧水を使っていて良かったと思った。響きがクソダサくて普段自分からは決して口にしないんだけど、俺はムジラーです。。

末端冷え性も通常の倍ぐらい拗らせてしまうのは毎年のことで、露出した横頬から雪が体温を奪っていくのを感じながら柴犬の散歩をしていると、指先の神経が使い物にならなくなっていって、あの時指先が車に轢かれても多分俺はそのことに気がつかなかったと思う。

時間は弓矢なんかの何倍もはやいもんで、家族と牡蠣を食べに行ったり、友達とは焼き鳥や馬を食べに行ったり、親戚と焚き火を囲みながら互いの趣味の話をしたりしていたら、復路の飛行機の搭乗日前日ですよ、というメールが届いてしまった。

何年か前みたいに、地元の友達と大勢で集まって騒ぐってことはもう無くなっていって、本当に仲の良い人間だけと、舌がマジで大喜びするようなものだけを囲みながらお喋りをすることに時間を費やすようになった。

本当に大切で爆笑できるようなことだけが残っていく感覚が嬉しくて、本気で「また次ね」って言って別れた帰り道はひとりでにやけていた。恥ずい。赤面。恥ずい。おい通りがかりの車、轢いてくれ。

 

というわけで、丑年。

さっきの文、せっかくだから丑年にあやかって「おい通りがかりの丑、轢いてくれ」でもいいと今になって思ったんだけど俺の実家はそこまで田舎じゃないからやっぱり却下。

丑年になった瞬間は、酔っ払いすぎて寝ていた。久しぶりに対面するテレビ、ということで本当はおもしろ荘が観たかった。あのタイミングで、あの時間帯に観るおもしろ荘が。ガキ使は最近観なくなってしまった。単純におもしろさが感じられなくなった。昔のやつはよく観るんだけど。俺が年末のガキ使で一番好きなシーンは、『ホテルマン』の回で、遠藤の弟(めちゃくちゃ真面目そう)が登場してホホホイを完コピするシーン。通常回のガキ使で一番好きなシーンは、『ききカレー』の回で山ちゃんがアウトになって、奥からインド人が出てきて罰ゲームで思いっきし振りかぶった重いビンタをくらうシーン。

帰省しているうちに食べる量が増えたせいかいつのまにか食欲が復活していて、よく食べる分体力が有り余っている。煙草は、何ヶ月か前からどうしようもなく不味く感じるようになってしまって、キッパリ吸わなくなった。多分そのせいで、身体がとてつもなく軽い。

笑っちゃうぐらい好調な滑り出し。どこへだって行けそうだ。

浮雲

せっかくウイスキーの美味い冬が来たっていうのに、何週間も太陽を見ていないせいで心がどんどん金属みたいに重くなっていって、それにつられて体も重くなっていく。このままアスファルトをも突き破る勢いで地面の底に沈んでいって、マグマと一体化するのも悪くないね。なんだか太陽みたいだし。海の下の太陽。上下左右なんて概念がない世界で浮遊するのは気持ちいいんだろうなきっと。体のことばっかり考えているから、重いとか軽いとかそいういうことを感じるんだろうな。そしてそれに囚われすぎて、何か新しいことを貪るために使うはずだったエネルギーは知らぬ間にボトボトと冷えたコンクリの上に垂れ流されてしまっている。怪我をして流血しているのにそれに気づかずに真顔をしているみたいで、滑稽。抵抗しようのない無気力。あえて抵抗しない?? なんだそれ。ヤク中並のエネルギーが欲しい。

 

まだ少し暖かさが残っていた秋のある日、佐々木中という人の存在が視界に飛び込んできた。大学の図書館で検索をかけると確か2冊の本がヒットして、その中から直感だけに従って『切りとれ、あの祈る手を』を読んでみた。衝撃だった。何度でも言える。衝撃だった。それこそ、"貪る"という言葉の存在価値を手に取って確かめるように、だいぶ久しぶりに手元に帰ってきた熱量と抱き合うように、血眼になって言葉を追いかけた。文字や時間が消え去った世界や、何か大事なことまで一瞬にして到達してしまえるような世界への憧れを抱くことが多いけど、この本を読んで、一度眼を通しただけでは手も足も出ないような世界、一生を懸ける勢いで向き合わなければ紐解くことのできない世界もこれまた美しいと再確認した。やっぱり、一度フィルターを通しただけで価値を失ってしまうものは紛い物だっていう直感は間違っていないみたい。ゆっくりいこう。読もう、聴こう、何度でも。そして感動しよう。時には爆笑がやってくるかも。本物と一生を共にしよう。笑えるな。

 

坂本慎太郎の『小舟』のギターソロを練習した。チバユウスケ横山健ベンジーを見てセミアコでロックンロールを弾き倒すことだけがかっこいいと思い込んでいた俺は、数年前に epiphone の CASINO を買って、一生リアだけで弾いてやらぁ! って下手糞なくせに息巻いていたわけだけど、最近はこうして坂本慎太郎を弾いてみたり、The Smiths を弾いてみたり、ネットに Chet Baker の『But Not For Me』の tab が転がっていたから練習してみようと思ったり、だいぶ落ち着いて幅が広がってきたなあと思う。まあ落ち着くことなんてバカらしいからPUNKもバリバリ弾くんだけど。けどPUNKだけバカみたいに弾いてても上手くならないよね、たぶん...。やっとセミアコっぽい使い方をされて愛しの CASINO ちゃんもさぞ喜んでいることでしょう。歳をとって、さらにエロい音とルックスになってほしいと思う。

 

そんな『小舟』には"逃げ遅れたってことか"っていう歌詞があって、最近ずっと曲を聴きながらギターを練習していたせいか、その歌詞について考え続けている。その歌詞が頭の中に居座り続けている。まるでライブで聞いた彼の声が永遠にフィードバックしているみたいに。常に最先端でありたいとか、常に真理に気づいていたいとか、そんな欲求は持ち合わせていないし、もし持っていたところで叶わないのは自明だと思うけど、"逃げ遅れた"という言葉の響きが心に重くのし掛かってきてしまう現実が、ネットを介して知る今の世界と"逃げ遅れた"という言葉が寒気がするほど完璧に重なってしまう現実がやっぱり確かにここにあって、その事実に悲しくなって少し泣きそうになる。こんな何回経験したかも分からない悲しさに嫌気がさして、Sonic Youth を爆音で聴く。少しだけ気が晴れる。布団に入って明日の朝を想像する。また、底まで沈んでしまいそうだ。

もうかれこれ3年ぐらいの付き合いになる友達と、だいぶ涼しくなったね、なんて会話を交わしながら海辺を走らせてパルコに行った。それからふたりして唐突に寿司が食べたくなったから、はま寿司にも行った。日常生活では滅多に回転寿司に行かない俺は、約2年ぶりに口にしたサーモンの握りの旨さに衝撃を受けて、サーモンの脂が旨く感じられるラインと、気持ち悪く感じられるラインのギリギリのラインまでサーモンを注文した。友達も同じように久々に口にしたサーモンの旨さに衝撃を受けていて、炙りとろサーモンみたいなやつを注文していたけど、たらたらと流れてきた炙りとろサーモンには土方十四郎を彷彿とさせる量のマヨネーズがかけられていて、はま寿司のクソバイト野郎マジしっかりしろよ死ねよバーカこのマヨラー!!!って思いながら、マヨネーズが得意じゃない友達と一緒にサーモンの上に無造作に乗っけられた大量のマヨネーズを落としながらそれを食べた。サーモンに続いて注文したサンマも体内から快楽物質が溢れ出すほど旨くて、地球上における光りものの存在価値を再確認した。光りものよどうか頭の悪い人間の乱獲を免れて生き残ってくれと思った。年末帰省した時に、はま寿司のもっともっと上を行く味の光りものに出会えたら嬉しい。時系列が前後するけど、パルコではタリーズで適当に飲み物を頼んでずっと音楽の話をしていた。友達も俺も比較的幅広く音楽を吸収している方だとは思うけど、ふたりとも全くと言っていいほど音楽のルーツが異なっていて、友達はR&B、俺はPUNKといった感じだから、幅広いと言えども普段聴いている音楽はほとんど被りがない。かろうじて被っているのがLil PeepやXXXTENTACION、Juice Wrldみたいなもうくたばってしまったアーティストばかりで、彼らの死を嘆きながら残された音楽の価値をふたりで再確認し合った。友達は俺に、Angie Stone の『No More Rain』や、D'Angelo の『Brown Sugar』、Roy C の『She Used to Be My Lover』を教えてくれた。R&B界隈の人間からするとこれらの曲は基本中の基本で、俺が初めて聴いたことを知ったら心底驚かれるんだろうな。Sex Pistols の『God Save The Queen』を知らないと言われたら俺が「マジかよ!」って思うみたいに。家に帰ってYouTubeでちゃんと聴いてみると、『No More Rain』なんかは再生回数が2千万回手前までいってるだけあってえげつないほど素敵な曲で、紹介された曲が入っているアルバムを追加しておいた。俺は普段声の美しさには特に気を払わずに音楽を聴いているけど、今回やっと、声は楽器であると言っている人の気持ちを理解できたような気がした。俺は友達に、Melanie Faye の『It's a Moot Point』やFrank Ocean の『Nights』、Meltt の『Love Again』を紹介しておいた。深夜に聴くと、脳味噌が宇宙までぶっ飛んでしまうヤバいブツを。普段パソコンをいじりながらYouTubeで音楽を聴いていたら、優秀で身勝手な人工知能がおすすめに、インディーで自由で尖っていて浮世までは当然の如く浮遊してこないような音楽を提示してくれるようになった。Meltt なんかはそんな経緯で出逢ってしまったアーティストで、全容はよく知らないんだけどアルバムを耳が溶けそうになるまでリピートしている。そんな音楽を、将来の難聴のことなど意に介せずに、ヘッドフォンで爆音で流しながらすっかり涼しくなった夜道を歩いていくのがたまらない。暗闇に溶けて消え去っていくような感覚がたまらない。

例えば車で信号待ちをしている時のような、他人に見られると恥ずかしいくらいの無の表情を曝け出している時に、人生で5本の指に入ろうかという面白いエピソードが唐突に出現してきて、隣の車窓からの視線を気にしながらひとりで笑っていることが結構ある。特にここ最近。

出現回数が多分一番多いのが地元の友達の話で、そいつが沖縄に出張した時のことだ。そいつはその出張が初沖縄で、そのことも相まって気分が良くなっていたのか、職場の先輩と一緒になってステーキやなんやら飯を食いまくったりパチンコを打ちに行ったりしていたらしく、現金として持ってきていた数万のほとんどを使ってしまったらしい。その時点でまだあと数日の滞在が残っていたから、金を引き落とすために財布を握りしめてゆうちょのATMに行き、お馴染みの緑のキャッシュカードを財布から抜き出したその瞬間、出てきたのはそれに色味がよく似たファミマのTカードだったっていう話。しかもちょうどクレカの磁気を飛ばしていてどうすることもできないそいつはあまりに絶望し過ぎて頭がおかしくなり、国際通りをそこが国際通りだと気づかないまま1, 2時間さまよっていたらしい。しまいには、国際通り沿いのマックでなけなしの数百円を捻出して注文し、貧乏ゆすりをして頭を抱えながら「だるいわーー」とぶつぶつ呟いていたそうだ。俺がちょうどその日にそいつと飯を食いに行く約束をしていて、おかしくなってしまった頭を引きずって動揺を隠しきれていないそいつに爆笑しながら5万ぐらい貸してあげた思い出。そいつはその後も何度か出張で沖縄を訪れているわけだけど、毎度飯を食いに行くたびにゆうちょのカードを持ってきているかを俺が真っ先に確認するのが恒例のノリになった。何度も沖縄を訪れている人間で、2回目でやっと国際通り国際通りだと認識した人間はそいつが史上初かもしれない。今思い返すと、レイクかどっかにそいつを引っ張り込んで金を借りさせたらもっと面白かったんじゃないかと思う。

そいつとは飯に行ける距離まで近づいたらすぐさま約束をするぐらいの関係性で、多分こんな関係性が一生続くんだろうと思う。互いに柄にもなく何かの間違いで結婚なんてしちゃったとしても、互いに丸まることのないようにゲロの話とかセックスの話をしていたい。狭い空間に収まることなく、突発的な思いつきに全信頼を寄せて車を遠くまで走らせ、一生爆笑できるような出来事を呼び寄せていきたい。その途中で車が大クラッシュしたとしても、あの世で「死んじゃったなーー」なんて言いながら爆笑していたい。

高校の友達の話もまあまあ出現回数が多い。彼女は大学生活の中でずっと居酒屋でバイトをしているわけだけど、そんな彼女が出来上がった料理を手にして注文先のテーブルのあと一歩手前まで来たという所で、超絶ベタに足がつまずいたか何かで運んでいたカキフライを辺り一面にぶちまけたという話。事の展開がベタすぎて鼻血が出そうなんだけど、訳がわからないことがあるもんで、ふと気を抜いた瞬間にそのエピソードが何度も飽きることなく出現してくるもんだから、俺も俺で立ち会ってもいないその瞬間の妄想のリアリティを高めるみたいな遊びをしている。ぶちまけた瞬間を想像すると何度でも笑える。

彼女とも多分随分と長い付き合いになるんだろうな。彼女も俺もとりあえず院進することになったから、社会に組み込まれちゃう前にもう一度ぐらい、働くのだるいねーー、なんて話しながらスノボにでも出掛けたい。

 

結局、ここで書いたどっちの話も、その面白さというのはその人の人間味みたいなものを知らない限りあまり笑えるような代物ではないし、俺自身も友達から俺が知らない人間のエピソードを聞かされた所で、俺にできることといえば目の前のグラスの空きを確認して真顔のままレッドアイを注文することぐらいだけど、まあ、腹が捩れるぐらい爆笑するのは最高ってことだ。爆笑しながら、本来であれば退屈で間延びするはずだった時間を一瞬にして駆け抜けるのは最高ってことだ。一生身体に跡が残るような出来事にぶち当たるのは最高ってことだ。

ここ最近仲良くなった女性を初めて家に上げたら、「なんで本棚置かないの?」という、一人暮らしを始めて以来、鼓膜が馴化するほど幾度となく言われてきた言葉をまた聞かされる羽目になった。確かに机の上や窓台やカメラのドライボックスの上や押入れの中みたいなありとあらゆる場所にありとあらゆる本が散らばっているわけだけど、全く広いわけじゃないワンルームのスペースが大きな木材の塊で占有されてしまうのが嫌な気がして、さっきの会話の最後に「これからも置くつもりはないよ」と付け加えておいた。その言葉に納得したかしていないか判別のつかぬ表情を横目に俺は、やっぱりあるに越したことはないかな、なんて考え始めた自分の存在に気がついて、その地に足つかない気の移ろいやすさに苦笑いした。

押入れの中で高く積み上げられた本の最下層にある人体解剖図が急に必要になるといったことが昨日実際に起こったわけだけど、こんな時こそ本棚という革命の風を自ら部屋に迎え入れる時である。いっそのこと、押入れを改造して本棚にしてしまうか?? そうすれば、今まで思い悩んでいた部屋のスペースのことを一切置き去りにして考えることができる。そうすれば、昨日みたいにわざわざ積読を掘り起こさずとも一瞬にして目的の本にたどり着くことができる。そうすれば..........。枚挙に遑がない。

しかしこうして本や写真集やらが膨大に増えていくことで、恐らく定住するようなタチではない俺が、次第に身動きが取りづらい状態へと近づいていっているようで、なんだか喉に魚の骨が引っかかったような気分になることが度々ある。常に身軽になりたいと思っているけれど、俺が好き好んで集めているものたちは裁断してPDFで読むようなものでもない。KINDLEなんぞ洗脳された奴らが手を出すものだ。身軽になりたいという思いと、愛してやまない沢山のものたち囲まれていたいという思いは、相殺し合う運命なんだろうか。そして、最近友達から fender mexico squier series の年季が入ってかっこいい黒のテレキャスを貰ってしまった。また一歩、定住生活に近づいた。これじゃあまるで養鶏場のブロイラーじゃないか。重い体では、遠くへ行けない。

夜明け

疾風を背に受けてぐんぐんと加速していくクルーズ船のデッキの頂上で、中学の友達と一緒になってワイワイガヤガヤとお喋りをしていた。デッキの頂上にいたはずなのに、見えていた景色はマストトップから辺りを見下ろしているかのようで、そのせいか向かってくる突風はより一層強烈に感じられた。そんなちっぽけな人間のことは意にも介せず、クルーズ船は手加減無しに加速していき、そのスピードが最高潮に到達したかと思われたその瞬間、目下の景色が窺えないほど高くて長い橋に差し掛かった。過剰に振り切ったスピードのせいか、橋の半ば程に差し掛かった瞬間、クルーズ船は欄干を突き抜けて橋の外へ飛び出してしまい、そのまま急降下を始めた。周りにいる皆が、間違いなく死に向かっている事実を察知して悲鳴をあげる中、俺はただただ奇声を発しながら、今度は下から突き上げてくる突風を体全体で受け止め、ジェットコースターに乗っているかのような気分でいた。ものすごい勢いで重力に引っ張られながら急降下を続けたクルーズ船は、船底から硬い地面に叩きつけられてバウンドし、次の瞬間空中で横転した。誰かが発した、最期に振り絞るような叫声が微かに耳を掠めていった。

洗濯物を干しにベランダへ出ると久しぶりの突き抜けるような快晴で、カレーを食べに行きたくなった。いつからか、カレーと快晴は切っても切れぬ関係になっている。昼頃になってやっとベッドから抜け出して、道中で水を買って、真正面から突き刺さる太陽光と目眩のしそうな熱気に揉みくちゃにされながらカレーを食べる。そのあとバングラッシーをキメて24時間の眠りにつく。最も無意味で最も有意義な時間の使い方。

 

 

昨日新しく知ったはずのことが、一夜明けてみるとずっとずっと前から知っていたことのように感じられることが頻繁に起こる。感情なんかも一緒で、つい何時間か前まで新しく生じた感情に感動していたのに、眠りから覚めたらその新しい感情はかなり前にどこかで経験したもののように感じられる。夢も、ストーリーが終わって目が覚めた瞬間は新鮮さに満ち満ちているが、数時間後にふと夢を見たことを思い出すと、そのストーリーは遠い記憶であるかのように感じることがよくある。自分にとって新しい何かを経験した時に感じる新鮮味は幻なんだろうか。確かに新鮮味を保ったまま、初めて衝突した時の閃光を煌めかせたまま、存在し続けているものもある。ただ、確実に新鮮味を持っていたはずのものが、いっとき経つと遠い記憶のように変化してしまうこの現象は何なんだろう。前世の記憶がDNAにこびり付くように組み込まれているみたいだ。

 

 

明日ノベンバのDVDが届く、予定。吉田棒一の本も注文した。何週間後かに届く、予定。最近心の奥底にまで振動が浸透してくるような作品に出会えていない中、このふたつにはめちゃくちゃ期待している。

最近良い作品に出会えていないみたいな書き方をしてしまったけどこれはそんな一面的な意味ではなくて、なんというか、これは意味わかんねえとか面白くねえとか思っても、自分がその面白さに気づけていなかったり、面白さを逃したりしているだけだと思うんだよな。気づけていないなんてよくあることで、少し大人になってから再び作品に触れるとすごい衝撃が返ってきたり、すこし遠回りをしてから再度触れてみるとその価値が輝きだすことがあるってのが、その最たる例だ。また、俺は”ノーベル賞を欲しいと口に出している”という理由ひとつで村上春樹を軽蔑していて作品などひとつも読んだことがないわけだけど、これはまさに面白さを逃していることになる。ついでに『ティファニーで朝食を』も、彼が翻訳しているからなんとなく手に取らないでいるけど、これも同じようなことだ。けどやっぱり分かんないもんは分かんないし、それも運命ということで楽天的に受け流す。お気に入りのもので生活を埋め尽くしたい。新しいDVDと本が楽しみで楽しみで心が弾んでいる。早く明日へ!!

 

 

親戚のおばちゃんが亡くなってしまってから丁度一年が過ぎた。酔っ払った頭で、そのおばちゃんのことを想った。酔った頭の方が、より一層本心を伝えることができると思った。この疫病のせいでせっかくの一周忌のお祈りが延期になったらしい。俺もゴールデンウィークに合わせて帰省して一周忌に参加する積りだったのに、飛行機に乗ることさえもはばかられるこの状況、、、止む無く払い戻しの手続きを行った。親戚のおばちゃんは、自分で選択したのか、それとも梵みたいな何か崇高な威力に引っ張られたのか分からないけれど、ゴールデンウィークの真っ只中に突如息を引きとってしまって、皆大慌てだった。俺なんか、母親に飛行機の値段は気にしなくていいから帰れたら帰ってきなさいと言われたものの、そもそもゴールデンウィークに直行便のの残席が存在するわけもなく、しょうがなしに台湾を経由して故郷に帰った。台湾に寄って帰ってきたよ、と母親に告げると驚嘆と感心がごちゃまぜになったような表情が返ってきたけど、旅慣れた俺にとってはそのくらいのことは何でもないことだった。台湾なんてただの隣県だ。まあ、面倒臭いといえば面倒臭かったんだけど。けどこの面倒臭さの先には満開の菊が咲き誇るような光景が確かに存在していて、それは棺桶を覗き込んだ時に強く強く感じられた。すごく親切にしてもらった人が亡くなってしまうのはとても悲しいことだけど、人が後世に向かって静かにバトンを渡す瞬間はとても尊いものだと、このくらいの歳になって初めて本質的に気がつく。無言で、全てを理解してくれているような人だった。やっぱりね、人の魂というものはそう簡単に消滅してしまうものではない気がする。

 

 

野菜や鶏肉や魚が沢山詰まった重い買い物袋を提げながらアパートの階段を登っていると、途中のフロアで、ある部屋のドアが空いていて、そこの住人と恐らくそこを訪ねてきたであろう友人が立ち話をしていて、目が合うのも気まずいから下を向いてそそくさとはやくそこを通り過ぎようとするとそのどちらかが、「いやあやっとラブライブを観終わったんですよね〜〜〜」と言った声が耳に入ってきて、密かに声を殺して爆笑していた。おふざけ以外では友人対して敬語でなど話したことがなく、更には仲良くなった年上の人に対しても敬語を吹っ飛ばしてしまうことがあってなぜだかそれをすんなりと受け入れられてしまうことがほとんどの俺は、きっとこの先いくら人格が変わってしまうほどの体験を経たとしても、如何なる職業で飯を食っているとしても、友人に対して敬語で話す感覚というものは絶対に理解することができないであろう。一瞬だけ異世界に飛んで返ってきたような感覚が面白くて笑っちゃった。せっかく仲良くなった貴重な人間と敬語で話すなんて、互いに理解を深めていって距離をぐっと縮めることを投げ出しているとしかどうしても捉えることができない。これはもう性格だからどうしようもない。けど俺がこう思っていることを彼らが知ると、「いやあ私たちの世界なんてあなた方には到底理解できないでしょうね」なんて言われるんだろうな。彼らは自分らと相反するポイントを能動的に詮索しては周りの人間に"部外者"のラベルを貼り付け、自分らを狭い狭いコミュニティへと更に追い込んでいる気がする。だから魔法使いにまで進化してしまうんだよ、と思う。いや、他人だから別にどうでもいいんだけどね。

深酔

頭から深紅の液体が滴り落ちているような予感がして、額に手の平を当ててみる。けど何も付いていない。それでもまだ何かがポタポタポタポタと.....落ちてくる溢れ出す頭蓋骨のキャパシティを超えて! やばいやばい何かが漏れる。血か?これは? どっかで頭打ったっけ? それとも誰かに撃たれた? また額をさすってみるけどいつもと何も変わりはない。じゃあ額に沿って流れずに直接地面に飛び散っているのか? 果物が破裂した時みたいにさあ! けど地面にじっと目を凝らしても、もうこの人生で何十回何百回と目にしてきた何の変哲も無いリノリウムが横たわっているだけなんだよ。じゃあ今現在俺の脳味噌から流れ落ちているものは何? たまたま隣に居た奴らにそう尋ねてみても、もう頼りになる奴なんてひとりも居ない。客観的な視線なんてこんな場では木っ端微塵に砕け散っている。俺って何でこんなクソみたいな状態になってんの? なんかしたっけ? 3時間前の記憶を検索。皆無。1時間前の記憶。皆無。30分前。皆無。1分前。皆無。あーーー過去の記憶なんてこれっぽっちも残ってないじゃん。感じられるのはたった今この瞬間だけ。時間軸なんてそんな陳腐なもんに惑わされてたまるかよ! "今"っていう概念さえあればそれで事足りるじゃんだって世界中の全人類は"今"にしか存在し得ないから! 過去を遡っても額縁に嵌めて飾っておくような記憶なんて無いに等しいし、未来に目を向けてもどうせ破滅や搾取の道しか見えないんでしょ。やってられるかよこんな世界でさ。だから俺らはこんなむさ苦しい社会不適合者の掃き溜めみたいな狭い空間で最上級の"今"ってものを探求しているのさ。洒落っ気の欠片もない空間で呑気に"今"を持て余しているお偉いさんなんか糞食らえってんだよ。偉くねーよてめーらなんか。貴様らみたいな権力持ってないとガタガタ震えてしまうような奴らに払う対価など皆無だ。こんなこと考えながらカウンターにたどり着くと唯一素面で頼りになるバーテンが一言。お前何回トイレに走ったか知ってるか? だってよ。こんな醜い自分の姿想像できるか? けどこの場で一番悟っていて一番信用できるのはこのバーテンだけだ。彼の言葉を信用するしかない。ということでやっと解決したよ、これほどまでに脳味噌から何かが滴り落ちてきている理由が! もうやばい、普段使っている頭の部分だけでは、今、目の前に確かに存在している世界の全てを受け止めることはできそうにない。脳味噌が真っ赤っかで、びっしょびしょで、絶えず波打っていて、その波は防波堤を遥かに超えて外へと溢れ出す。俺ひとりの力じゃどうしようもない。爆音で流れる音楽に縋り付く。