01122019

<インドで書き残したメモ、もしくはインドが俺に書き残したメモ>

 

インドの人がストーリーにカレーを載せるとカレーだらけのストーリーになるのかな。スワイプを何回も繰り返してもカレー、カレー。スマホのマイクの中からカレーの匂いがこみ上げてきそう。

 

観光地では、訪問者と現地人との間で信頼関係が成り立っていない。小さなスナックを一緒に食べているだけの時でも、相手が"no money"と言い続けていたのがとても寂しかった。

 

曲がりくねったガンジス川に首を絞められる

 

心臓の鼓動が早まるのは、脳の鼓動によって放たれる波動が強まるからだ

 

一切を受け入れるために、空洞があるのか

 

もし犯罪を犯して顔写真が全国の皆々様にばら撒かれるようなことがあっても、「この人怖いね」と物心のついていない少女に嫌な顔をされたり、「見てると寒気がするね」などと知らない主婦に言われたりしない表情の顔写真が出回るといいな。

 

チャパティに乗っけたカレーとピザは似ている、と思った

 

以上。スマホのメモの消化。

 

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12月に入った。ノベンバの『ANGELS』と『Hallelujah』がapplemusicで再生されることのないまま11月が過ぎ去った。

秋刀魚が食べたくなってグリルで焼いて食べた。秋はもう終盤。秋刀魚を食べるのも今年はこれが最後かな。

包丁を突き刺して切れ目を入れた秋刀魚をグリルの中に入れようとした時、手が滑って生臭い秋刀魚が床にボトりと落ちた。部屋の照明を反射した身がギラリと光る。この瞬間から、人間の体が光り物みたいな感じだったらどうなるだろう? という妄想が頭を駆け巡った。もしそうなったら、夜道で轢かれて死ぬ確率は確実にゼロに近づくなあとか、海に行ったらドン引きされるか物珍しさに記念撮影を永遠に求められるかのどちらかだからTシャツを脱ぐときは周りの人相をよく見なければいけない、とかいうことを考えた。きっと頭はこんなことを考え出すために大きく進化したのではない。

 焼きあがった後に突きあがってくる秋刀魚の青臭さを早く部屋から追い出したくて、いつにない迅速さで台所を片付けた。

今年も秋が終わった。

秋、あと何回来るだろう。

無防備な自分を求めて

大好きな写真家に三井昌志という人がいて、この人がTwitter

「あなたが遭遇した親切なインド人、正直なインド人」のエピソードを募集します! というツイートをしていて、皆それぞれが、インド愛を更に加熱させるきっかけとなったであろうエピソードを無数に披露していた。

俺も約半年前の記憶を捲り返すと、コルカタから西へと向かう汚ねー寝台列車で真向かいに座っていたおじさんが、ひとりでスコールを眺めながらぼけーーーとしていた俺に「どこで降りるの?」とか「楽しめよ!」とか言いながら、持ってきていたカレーを半分も!分けてくれて一緒に喰らいついた思い出が蘇った。

やっぱり、大きな都市や観光地では悪を隠し持って近づいてくる人もいて...。そういった人たちのせいでそういう場所ではまず最初に警戒心を携帯して人に接しなきゃならないんだけど、見知らぬ人たちが与えてくれた親切が偽善ではなく、本物の親切だと気がついた時は、要らぬ疑いをふっかけていた自分をすげー攻め立てたくなる。

他にも、ここじゃ絶対書けねーようなくだらねー話で2時間近くも爆笑し合ったおっちゃんたちとか、頼んでもねーのに「ガイドするから着いてこい! 金なんていらねーから!」って言ってズカズカと勝手に先に進んで行くおっちゃんとかのことを思い出した。なぜかおっちゃんばっかりだな...。

しかしこう思い返してみると、距離の近い人間関係を好んでいるのが俺の本当の姿なのかな、と思う。あと、普段は喋るのめんどくせーって思って自発的に言葉を発すことは少ないけれど、本当は喋ってお互いの全てをぶつけて笑いあっているのが好きなのかも。じゃあなんで普段生活している環境ではそうやって振る舞えないのかって今日ずっと考えを巡らせていたけれど、これだ!って確信をつく答えは見つからなかった。まだまだ、自分のことを理解できていないな。これからもっともっと、ガードを下ろした自分に向き合う時間を作る必要がありそうだ。

忘却

年間で本を幾冊も読んだり、好きな人のブログを無数に読み漁ったりして、その人たちが捨て身になって、身体をボロボロにしてまで俺らに伝えたかった言葉を全身で受け止めることができても、日を跨ぐと、いとも簡単に、その言葉を記憶の渦中から抜き出すことができなくなっていて、茂みの中からやっとの思いで見つけ出した宝物をどこかに無くしてしまったような気持ちに陥ることがよくある。まあ、有形のものでも無形のものでも、永遠に微塵も欠けることなく存在し続けるものなんて無いって、わかってるよ、わかってる。ただ、その真実に真っ向から立ち向かうように、自分の心に刺さったものがずっと失われないでほしい、という気持ちが芽生えてくるのを黙殺しておくことはできない。こうやって永遠を願う気持ちは日常風景においてもよく捉えることができて、愛する人が死ぬと哀しみに暮れるのも、人間が音楽や絵画や文章を創り上げようと試みるのも、きっとそれのせいだと思う。こういった、気持ちと現実の食い違いに対するせめてもの気休めとして、一度でも心を動かされた言葉は全て無意識の内に仕舞い込まれていて、それらが上層まで登ってくることは一生無くても、逃避するしかないくらいに追い込まれた時にそっと内側から支えていてくれたり、何か大きな決心をする時のきっかけになっていたらいいなあと暗示をかけている。きっと、そうなっているに違いない。

日中、色々と用事をこなして、そのうちのひとつの用事は半ば失敗に終わって、ため息交じりに厚紙みたいな雲で覆われた空を眺めながらガラムを吸って、家へ帰ってベッドで独り、無の状態に陥っていると、またあいつが唐突に心臓を掌握してきて、シーツが濡れた。来んなよ、と小さな声で呟いたりしてみたけれど、乗り移った邪気は瞬く間に全身に転移した。まだまだ、あいつに勝てるほどの強さを身に纏うには経験が足りないみたいだ。けれど今日はいつもとは違った。一通り布団に顔を埋めた後にYouTubeを開いてみると、KIDがいた。KIDが宮田の顎をカチ上げたり、村浜をギラついた目で殴り倒したりしていた。それを観ているといつの間にか少しばかりは気が晴れていて、30分どん底にいるだけで済んだ。そうだ、KIDも尊敬している人のひとりだった。小学生の頃、大晦日K-1HEROSのマットに殴り込んではワンパンKOで相手を地面に叩きつける彼の強さに憧れ、人間の心の奥底を見抜けるようになった高校生の頃には、彼の優しさに憧れた。彼のインスタで癌になっていることを知った時は、KIDならそのくらいでくたばる筈はない、と思って特に悲観するようなことはなかったけれど、公表から其れ程間髪を開けずにKIDは俺らを見守る存在になった。そのことを知ったのは台湾の飯屋で、いつもなら熱いうちに完食するはずの台湾料理だけど、どう足掻いても箸が進まずに、食べ終わる頃には熱が冷めて白い油が吐き気を催させた。あれからもう1年数ヶ月経ったけれど、彼が俺に与えた影響というものは、いくら価値観が推移していこうが、誰と共に生活していようが、俺の骨格の内側に根を張っていることに変わりはなく、誰も再現することなど不可能なほど美しい放物線を描いた右フックで相手を失神させる映像を、この先何百回、何千回と視力が尽きるまで眼球に叩きつけることになるだろう。

KIDが降りてきてくれたおかげで底から脱した俺は、最近買ったヘッドフォンで、長いこと聴かずにいた『I Believe』を流しながら、真っ黒になったアスファルトの上を散歩した。この瞬間は、何故か寒さを感じなかった。

帰省のはなし

今年も、毎年の例に漏れず故郷で年越しを迎えた。

中学の友達とは拉麺と焼き鳥を食べに行った。

拉麺は平日昼間でも行列が絶えないぐらいの人気店で、今回は大晦日に行ったのに1時間近く北風に晒されていた。普段はぬくぬくとした場所に住んでいるから、指先が寒冷前線にびっくりして手のひらから取れそうだった。幸い、まだくっついている。1年ぶりぐらいにちゃんとした豚骨を食べたわけだけど、実家の料理を口にしたような安心感。ドーパミンが皮膚の隙間から溢れ出すぐらい美味い。ただ、美味いがちょっと臭い。美味いと臭いは紙一重。この店は高校へ行く通学路沿いにあって、いつも朝一豚骨の匂いを真正面から顔面に受けていた思い出。

焼き鳥はいつもの炭寅へ。これのために飛行機をとってもいいくらいの味。初期衝動を何度でも繰り返す味。セセリがよかった。あとヤマセミという焼酎もよかった。この店は少し格式が高いところなのだけど、前行った時に「皮10本!!」みたいに大衆居酒屋でするようなオーダーの仕方をして店員を焦らせてしまったことがある。今回もかなり阿呆みたいに注文をしていたら、店員が会計の際に「かなりがっつり召し上がりますね」と言ってきた。大人なオーダーをできるようになるのはいつになるだろうか。だって、おいしいんだもん。

高校の友達とは居酒屋で鶏皮を食べた。サイゼにも行った。彼彼女らとは近況や進路の話をした。俺ともうひとりは院進しそうで、あとひとりはお医者になりそうな感じだった。お医者の学校の話を聞いていると、学業で1日が埋め尽くされていたり、寮に門限までに帰ってこないとロックがかかって締め出されたりするそうで、俺には到底無理難題な生活だと思った。そして院進ポンコツ組は楽に働きたいとの一心で、しきりに将来の開院と俺らの雇用を提案し続けていた。働きたくねーーーーー。

先の中学の友達の親戚とは、馬を食べた。友達の親戚といっても年が近いわけでもなんでもなく、40ぐらい? の女のひとで、高校の時から友達と俺を誘ってよくご飯に連れて行ってくれる。その親戚は彼女を連れてきていて、そのひとも混じってに4人で食事をした。だいぶ酔ってからその場に合流したのと、親知らずが痛かったせいで、食べ物の味の記憶があまり無い。ただ、ビールを頼んだらプレモルが出てきたのがたいへん嬉しかった記憶がある。相手側のふたりはあまり会う機会のない俺に、大学での研究のことをやたらめったら質問責めにし、同じように俺は相手に今の仕事のことや彼女の故郷のことを喋らせた。高卒で学問なんかにはさらさら興味を持たない友達は、その輪に入れず退屈そうにしていた。それを見てか、彼女が俺と友達に「ふたりでいるときは何話すの」と尋ねてきたので俺らは二人揃って「しょうもないこと」みたいな感じで答えた。下品な話が半分以上だ。この友達は地元でいちばん仲がいい友達だ。彼の家族を含めて、死ぬまで付き合って行くことがもう既に確定している。そう言っても当たり前のように聞こえるぐらい仲がいい。本の話も、音楽の話もまったくできるわけではないのになぜか一緒にいる。よくわからない。そういう彼は、今の恋人といざこざしていて、その恋人に刺されるんじゃないか疑惑が出ているから、なんとか気の狂った女の刃先を躱して、また一緒に焼き鳥を貪りたい次第である。笑

母とは、うどんを食べに行った。「うどんはゴボ天にきまっとろーもん」と常日頃から思いながら生きているので、ここ5年ぐらいゴボ天うどんしか口にしていない。うどんの上のゴボ天は、衣がサクサクなうちにササッと食べてしまうのか、衣がふやけていくのとその油が出汁に流れ込んでいくのを渋々見届けながら麺の分量に合わせて食べていくのか、という論争は棺に入る時でさえも止んでいないだろう。

しかし母とは、家の食卓でご飯を食べている方が幸福だと思った。お味噌汁でもなんでもいいから、帰省の時には母が作った料理を求めている自分がいることに気がついた。というのも、帰省の初日、母が訳あって家に帰ってくることができず、その代わりに父が俺とおばあちゃんの食事の世話をすることになった訳だけど、料理の得意でない父は外で買ってきたものを並べているのがほどんどだったので、湯気は出てるけどなんだか冷たいなあ、と滅入り、俯きながら重くるしい箸を進めざるを得なかったから、母がやっぱり必要なのだな、と実感していた。

久しぶりに会ったおばあちゃんは、とっても元気そうだった。5月にいちばんのお友達がくたばってしまったときは、多分絶望とか喪失がのしかかって、食欲もなければ血色も悪かったけれど、今回は対照的に、箸がとまならければ、赤い服なんて着ちゃって、調子がすこぶる良さそうだった。生きれるだけ、生きて欲しいと思う。

年越しは、友達とふたりで神社で迎えた。山を少し登ったところにある神社に行ったから、凍ったような空気がまとわりついてきて、ここでも指と耳がポロっと落ちそうだった。参拝の列に並んでいた時、宮司さんに「鐘が鳴る前に参拝してもいいか」と尋ねているおじさんがいた。まったくどうしようもない奴だ。神社のような場所でも急ぐことをやめられないのは、彼が現代病に罹患しているせいかもしれない。

そんなこんなで2020年になった。今年も、血液が逆流するような刺激や経験を渇望することを忘れず、勇気を出して弱さと目を合わせ、なんとか生きていけたらなあと思う。

ここ1ヶ月ぐらいは下から足を引っ張られ、上から手を引き上げられ、その力が平均するとちょうど同じぐらいでなんとか真ん中と呼べる位置にとどまっていたような、そんな感じだった。

下の方にいるのは、これから否が応でも組み立てていかなくてはいけない全く興味関心のない人との人間関係で、、ああ顔を思い出しただけでもめんどくさくなるな。またインドにでも逃げ出して、5分前に知り合ったインド人たちと中学生みたいな会話をして他の一切をその瞬間だけでも頭の中から抹消したい。

金曜日にある1対4の心理学の授業では第1回目から、生きる意味を考えてみよう、と言われた。そんなもの平均寿命を全うしたとしても手の内に掴めるものではないと思っていたのに、たった15回で一冊の本の中からそれを形にしようというのかな。教授の彼は、生きる意味をずっと考え込んでいる状態は正常ではない、といった趣旨のことを言っていて、俺はやっぱり正常な状態にはないのか、と自分を客観視していた。なんだろうなあ、生きる意味って。死後も含めた世界で自分に降りかかる全てのことが自分の選択の結果であるとしたら、生まれたっていうことも自分が選んだことなのかな、なんて考えていた。誰も口には出そうとしないけれど、その反対の死ぬ機会だって腕を伸ばせばすぐにでも掌で弄ぶことができる。もしかすると生きている時にしか得られない何かがあって、それを見つけていくために生まれるって選択をしたのかも。こんなことで頭を充満させるとどん底に落ちてしまうから、ここら辺で止めておく。

上の方にいるのは、憧れのMateusAsatoを生で観ちゃったこと、坂本慎太郎のライブが1ヶ月後に迫っていること。MateusAsatoが小さなライブハウスのボロいアンプから鳴らす音は、秋の終日の情景を丁寧すぎるほどに、見事なほどになぞり、表現していた。聴き手の頭の中に埋まっている美しい記憶を引き出すことによって完成する音楽はたいへん素晴らしい。彼が一生のうちに鳴らし出す音は、生であろうとなかろうと、くまなく俺の耳に入ってくるだろうと思った。坂本慎太郎は、どんなファッションでステージに立つかが何故か気になる。その日はお酒を沢山飲みたい。

最近引っ越したのだけれど、その引っ越し先は5階で南と西に窓がついているから1日のほとんどを太陽と共に過ごすことができる。これも上の方の要素。最上位。その瞬間限りの色や表情の空を眺めながらベランダで佇む時間は、生きていてよかったのかも、と思える貴重な時間。その空を、シャッターを切って半永久なものにするときもあれば、記憶に残るかどうかもわからないままただ茫と見つめることもある。こんな生活、いつまで続くかなあ。

 

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小さい頃から高校生ぐらいまで花粉蓄膿で年中鼻水かみまくりみたいな生活だったんだけどその代わりお腹はめっぽう強くてちょっと腐りかけた物飲み込んじゃったり地面に落ちたものを拾い上げて口に入れたりしても腸は余裕綽々でびくともしなかった。日本から飛び出して、馬鹿みたいな衛生状態の店で名前のわからない料理を喰っても、どこの牛から搾取したのかもわからない常温のヨーグルトを喰っても何事もなく帰国していた、筈だった。今までは薬を常備しているなんてダサい、という凝り固まってどうしようもないけど固守しなければならない個人的なプライドの下、薬や医療用品の類は持ち物に入っていなかった訳だけれど、今回は流石に印度、皆んな仲良くお腹を下すとの呪いが広がる印度ということで、amazon正露丸を買った。そこでも例の如く、水には細心の注意を払いつつ、けどしかしお店では出されたものを最大限の好奇心とともになんでも口に放り込んだ。よく思うんだけど、こんな時、というのは料理が出されて「これはさすがに飲み込まんほうがいいかな」というものが混じっていた時でも、未知の味に対する興味と日本人の特権である勿体無い精神とやらが感情を囃し立ててきて結局飲みこんでしまう。ついに正露丸の出番が来てしまったのは帰国する2日前くらいで、あの憎たらしい匂いを放つそれを毎食後3錠も飲まなければいけなかった。気に障る何かを科学技術でいくらでも取り払うことのできる時代になんでこんな頭の悪い匂いのする錠剤を飲まなければいけないんだと思っていたけど、この前母親と話していたら正露丸糖衣という革命的なものの存在を知った。早く教えてよ...。まあそれでも正露丸は偉大でしっかりと症状を押さえ込んでくれて、バンコク経由で日本にたどり着いた。今回の症状はあまりにも酷くてマジで水が出てきた。君は膀胱へ向かうべきではなかったの?と問いかけたくなるくらいの水。ああ俺のお腹は強靭だった筈なのに。少し発熱していたし過保護な税関職員に知られたら絶対でかい病院に連れて行かれ身包み剥がされ徹底的に検査されていただろうけど、ポーカーフェイスで通り過ぎ、帰宅。その後3週間ぐらい症状を引きずっていた。やっとのことで、つい何日か前に症状が治まったのをネタにこういうどうでもいいことを長い船旅の暇つぶしに書いている。案外、病院行って薬もらわずとも治るんだ、ということが分かった。薬を断固たる決意で飲もうとしないのは、恐らく未知の症状に対して自分の身体はどうやって対処していくかとか、身体にどんな反応が現れるのかとか、そういったことに興味があってそれを楽しんで傍観できてしまうせいだ、と他人の書いた文章を読んだり、他人と会話をしたりしながら考えていた。このことを帰省の時にいつも会う友達に話すと「私もこの前トルコでね、ーーーーーーー」とか、また他の友達は「私も薬持っていかんと思う。正露丸さえも持っていくかあやしいな。だってーーーーーーー」とかいう酔いが覚めると手元に残らないような会話が始まって俺は一生懸命喋る友達の仕草を笑いながらずっと眺めて、俺か友達のどっちかが死ぬまでこんな関係を続けられるなら、友達はもうこれで十分だ、と思った。

少ないけど、尊敬している人が何人かいる。

会ったことがある人も、ない人も、もう死んでるのに一方的に慕ってる人も。

物書きだったら太宰、写真家だったら任航、バンドマンだったら細美武士小山田壮平、あとは親戚かなあ。そんくらい。

彼らに共通しているのは調子が悪くて底に沈んでしまった時にいつでも全身を任せられるほどの優しさや強さ、あるいは他の何かを持っているっていうことで、もうちょっとこっちに来たら、っていう風に上から手を引いてくれる人もいれば、底の底まで降りてきて寄り添ってくれる人もいて、、、みんな強いなあ。

彼らが旅の最中に安いドミトリーで寝ていたり、ライブ後に限界まで酔いつぶれていたりするのを聞くと、なんだか益々尊敬が募っていく。

任航なんかは、初めて彼の作品を目で捉えた時からついこの前まで、何度作品を見返しても、頭の中に作品を飾っておいても、なぜか感想が言葉として浮かんでこなかった。今持っている感想も、心の奥底にしまってある真っ黒なモヤモヤの具現化だな、というしょうもないものだけど、こうして普段は隠れてしまって、或いは自分で隠そうとしてしまって見えていないものを表面まで浮かび上がらせてくれたり、自分はまだ知らない部分の自分、或いは自分が知ろうとせずに目を背けている部分の自分の姿を示したりしてくれる人はとても貴重だな、と思った。

いつ死んじゃうか分からないけど、それまでにこんな人たちにもっともっと囲まれたらいいなあと思いながら、今日も芸術を頭から浴びまくる。

27102018

街灯を滅多に見かけない、相手を選ばずに一切を飲み込んでしまいそうな闇に取り憑かれた夜道を、hと指を荒く絡ませ合い、肩を幾度もぶつかり合わせながら千鳥足でゆらゆらと歩く。方向感覚や距離感を掴めなくなってしまった脳はとても重い。こんな時にしか子供に戻れない。周りなんて糞食らえ。目の前に現れる全ての電信柱に唾と吐瀉物と頭突きを喰らわせる。須臾だけ不気味な雲の間から顔をのぞかせた満月は、小さな人間を嘲笑っている。大丈夫、問題ない。俺たちを囲む暗闇が目の前の気にくわない全てを地獄の底まで葬り去ってくれる。言葉を心底軽蔑しているふたりが醸し出す沈黙を雷鳴が突き刺す。空いた空間を無理に埋めようとせずに済むのは、hといる時ぐらいだ。水は空気中からこぼれ落ちる。相手にされなかった者の行方は下の下の下。俺たちは重力に立ち向かうことができなかった。「重力の存在を受け入れるのって、いつ頃かな」と言ったhの言葉は多分真理を捉えているけれど、今も昔も重力と関わり合いながら生きているのに変わりはないし、20年も共に在ればそいつの遇らい方を心得ていてもおかしくない。それなのに俺とhは重力に蝕まれてしまった。蝕まれたって事実を、俺は読みかけの本に挟んで、hはCDの凹凸に刻みつけて、それぞれ抽斗の奥の奥に押し込んでいたはずなんだけど、その事実はふとした瞬間に物質を超え、目の前に戻ってきて涙腺を満たす。互いの顔までの間隔さえも掴めないまま、理性と意思を失った眼球を見つめ合う。もっと狂おう、っていう無言のやりとり。言葉なんて必要ない。目線は空気を揺らす。このまま人生を続けるにはやっぱり酒が不可欠で、煌然たるスーパーへと向かって舵を切る。中に入ると、ハロウィンの煌びやかな飾りつけと共にお菓子が盛大に陳列されているのに気がつく。俺たちは浮世から突き放された世界にいる。hはその飾りつけやお菓子を目にした途端、今の心と幼かった心との間には擲っても刺してもびくともしない硬くて分厚くて酷薄な壁ができてしまったとか、世間がハロウィンの波に揺られてるって今になって知るなんて私たち孤独すぎるじゃんとか喚きながら、その場でしゃがみこんでしまって、容量未知数の涙腺から濁流のような涙を堰を切ったように流し出す。轟音を立てる冷房の下、青白い光に照らされて泣き崩れるhを見下ろしていると、俺まで泣きたくなってくる。ガラス越しに目に入る冷凍食品や、大雑把に陳列された鶏の死骸が途端に悲観的な意味を含み始める。空気中に拡散していたはずの悲しみが俺とhの周囲を取り囲み、体内に染み込んでくる。悲しみを追い払おうとしても、そんな気力なんてさっきの暗闇の何処かに落としてきてしまっている。hの嗚咽と拍動は指数関数的に加速する。生まれてから死ぬまでに心臓を刻むことのできる回数は皆一緒だって、なぜかそんな考えが脳に浮かぶ。それなら、躁と鬱を何度でも行き来してそんなくだらない数字を早くゼロに近づけよう。けどそれに達するにはどれだけの悲しみと遭逢することになるだろう。まったく、面倒くさい。カネを酒に注ぎ込むしかまともになる方法は残されていない。泣き止まないhのために、棚に凭れ掛かっている中でとびっきり度数の高い酒を買って、化粧の剥げ落ちた顔の正面から浴びせかける。頼むから、もう少しだけ一緒にいてくれ。そうじゃないと、煙草を巻いて秋の青空を見上げながら、生きてる、ってことを実感することもできなければ、夜が明けると襲いかかってくる煩わしい予定のことを顧みずにクラックラになることもできやしない。息絶えるまでhの存在は鼓動として俺の中に生き続ける。共に数字をゼロに近づけよう。さっき買った瓶を咥えてまた同じ道を逆からなぞる。暗転。濡れた身体で平明を待つ。

金剛石

雨季で観光客が少ないせいか、この日は広いゲストハウスに泊まっているのは俺一人だった。

月がいちばん輝く時間帯を見計らい、自然とつながるべく、独り建物の屋上へと向かった。

辺りには、瞼を閉じても入り込んでくる強すぎる街灯の光は皆無で、暗闇にしっとりと溶け込んだ月明かりに促され、ゆっくりと目を閉じた。

途端に心臓からものすごい勢いでエネルギーが送り出され、右脳へと向かういつもの作用が戻ってきた。

首の筋肉は、速くて力強いエネルギーの流れに逆らえずにいた。

頭蓋骨のてっぺんまで達して行き場を失った黄緑の流れは、煙へと変わって空虚な鼻腔や口腔に流れ込んだ。

ずぶ濡れになった脳味噌は黄緑色の海となり、南国の波が立った。

時間なんてものはとっくの昔に消え去っている。

この旅の目的は、時間を消し去ることだ。

たった数時間、時間から解放されるために、長い時間を労働に割き、長い時間飛行機や電車で眠りこけ、夢に魘されながら小さな街へ留まる。

これって矛盾していやしないか。

けれど、こんなことでしか本質的な幸せを手に入れることができないんだ。

幸せな時間を手に入れるって、なんとも効率が悪いことだろうか。

貴重な時間をたくさん犠牲にして、我慢して我慢して、時間を消す旅に出る。

やっぱり矛盾している。

人生は矛盾しているな。

人間は矛盾している。

世界は矛盾している。

しかし目の前ではガンジス川という完成形に達した存在が絶えず今を生み出し続けている。

なんだ、これも矛盾だ。

虚ろでフラッフラな視線を移すと、非の打ち所のないほど美しい大木が、その美しさを誇示することなく、かといってその美しさをベールで覆って隠してしまうこともなく、ただあるがままの姿を見せつけるように聳え立っていた。

この老大木とひとつになってみたい気持ちに駆られて、意識を大木の内側へと滑り込ませた。

この瞬間、動物と植物という分類の概念が消え去った。

彼らの体内は、色は違えど、動物であるかのように絶えず流れが存在していた。

葉や茎の中では青や緑のチャクラが蠢き、這いずり回り、根では赤褐色のチャクラが、緩やかに落ち着きをもって流動していた。

機嫌の移ろいやすい空の泣き言や歓喜の全てを、言葉を発せずに、物静かに受け入れ、それらによって得たイメージを土に伝える、という役割を当たり前のように全うしていた。

Tree of Life が伝えようとしていることを、このとき初めて心臓の脳細胞が理解し、その教えが脊髄にこびりついた。

日本での退屈にまみれた日常ではいくら長い時間考えても理解できなかったことを、時間のない世界にたどり着いた途端に一瞬にして理解できてしまう怖ろしさ。

理解しているのは、Tree of Life が伝えたいことの半分にも満たないかもしれないけれど。

翌朝も、最終日の名残惜しさを紛らわすように、昨夜と同じようにゲストハウスの屋上へと繋がる階段を登った。

視界は広がった。

背後まで見渡すことができそう。

虫酸が走るように蟻がうじゃうじゃと蠢き、鳥肌を引き起こす。

ハエはゆっくりと手足をこすり合わせ、首を左右に振る。

レンガの裂け目にそびえ立つ入道雲は、白よりも美しい色となる。

この光景は、遠い未来にデジャビュとなる。